怒りの本質は「嫌い(拒否・拒絶・排除)」という感情~ハートを育むことが大切

怒りの本質は拒否・拒絶・排除

怒り。
誰でも、怒ったりすることはありますね。
むしろ、怒らないという人は、滅多にいないと思います。

で、この「怒り」の本質は「嫌い」という感情だったりします。本質は「拒否」「拒絶」です。

「受け入れることができない」という心。
「認められない」「許せない」もそうです。
これが「怒り」の本質です。

もっといいますと、「こうであって欲しい」という心の裏返しともいえます。

願いがかなわない、気持ちが満たされない、だから「拒否」「嫌」「認められない」というものですね。

三大煩悩~貧・瞋・痴(とんしんち)

そもそも、人間には「怒り、貪り、無知」という
三大煩悩があります。

「貧・瞋・痴とんしんち)」といいますね。
三毒ともいっています。
これは仏教における分類の仕方です。

・貪り(貧)・・・「好き」
・怒り(瞋)・・・「嫌い」(好きの裏返し)
・無知(痴)・・・「無関心」

人も含めて生命はの全ては、
この3つの心で動いています。

原始的な生物は三大煩悩の反応で生きている

わかりやすいのがアメーバーです。

原始的な生物を見ていると、この3つの心で動いていることがわかります。

エサを欲しがる。
嫌なことから逃げる。
ボーっとしているかのように無関心。

アメーバの原初的な行動原理は、そのまま人間も同じです。

本質をいえば、アメーバも人間も変わりありません。

怒りの嫌い・拒絶から様々な心が派生

怒りは「嫌!」「嫌い!」といった拒否、拒絶が本質であって、ここから様々な心も派生していきます。

・受け入れることができない
・許せない
・認められない
・ねたましい
・おこる
・罵倒
・意地悪
・消し去ってやりたい
・壊したい
・殺したい
・これしかない
・これ「のみ」が最高
・こうでなければならない
・○○すべき

全て「拒絶」「嫌だ」という心が根底にあります。
以上の心は、すべて「怒り」から派生しています。

仏教では、怒りの本質を「拒絶」としています。
ちなみに、貪欲の本質は「求める」です。
怒りと、貪欲とは、対になる感情です。

怒りっぽいとは嫌いが強いこと

「怒りっぽい」というのは、「嫌い」の感情が強いことだったりします。

掘りさげると
「満たされていない気持ち」
「こうあって欲しい」という願い
があったりするんですね。

「許す」気持ちが弱いともいえます。
「愛」「許す」の正反対が、
「怒り」で「嫌い」だったりします。

潔癖症も怒りの表れ

そうして、こうした気持ちから、様々な心も派生していきます。

たとえば「潔癖症」なんかも、実は、そうだったりします。意外におもわれるかもしれませんが、潔癖症の本質は「怒り」だったりします。

「怒り」に取り憑かれたりすると、潔癖症にもなるんですね。

で、この潔癖症は、教条主義、完璧主義として現れることもあります。

自己嫌悪も怒りの表れの場合がある

また「自分が許せない」といった「自己嫌悪」もそうです。相手を「許せない」「認めたくない」というのもそうです。

全部「嫌」「拒絶」「満たされない」という心が、奥深いところにあったりします。

善行も怒りの心で行えば悪徳になる

ですから、こうしたメンタリティにあると、たとえ物事を綺麗に片付けても、丁寧に行っても、どんどん「怒りの心」を高めていくことになったりもします。

皮肉なのですが、綺麗に、丁寧にやればやるほど、かえって怒りをの心を増幅させてしまいます。

「慈悲」を実践しながらも、実は「嫌い」の心を強くしていくことも起きたりします。

ええ、本当に皮肉なのですが、見事なパラドックスに陥ることがあります。

修行も怒りの心からする人もいる

こうしたことは、精神修養や修行の世界でも、時々みられます。特に禅僧の中に、こうした傾向を持つ方がいたりします。

ものすごく厳しいことをやってみたり。
それも自虐的だったり。

あるいは、善いことをやっているかのように見えて、窮屈過ぎたり。

なんかおかしい、という印象を受けます。

自分がどういうメンタリティで物事に取り組んでいるのか。「ベースの心」そのものが、実はものすごく重要だったりします。

怒り(嫌い、拒否、嫌、許せない、完璧にしなくっちゃ)といった気持ちで物事を行い続けても、せっかくの行為が台無しになりがちです。

カルト・完全主義・原理主義も怒りが生み出す

また、これが「カルト」に発展する本質でもあったりもします。

「これが絶対正しい」
「これしか無い(ほかは「絶対に」ダメ)。

完全主義、原理主義。
これらは全て「怒りの心」です。
カルトに発展していく心です。

「完全主義」「潔癖症」「教条主義」「原理主義」という心理の根底には「許せない!」といった強烈な嫌悪感があるわけでして、この理想主義や潔癖の度合いが強ければ強いほど、怒りの気持ちも強かったりします。

怒りが昂じると破壊となる

で、この「許せない(認められない、嫌)」という気持ちがマックスに達すると、その対象物そのものを「破壊して」消し去ろうとします。

それが、「いじめ」であり、「暴力」であり、究極は「殺害」だったりします。あるいは物を壊す「破壊」もそうです。

拒絶の感情がマックスになると、人や物に八つ当たりをして、それを消し去ってしまうんですね。

破壊してまでも、拒絶しようとするわけですね。
強烈な拒絶ということです。

このように、ぜんぶ、つながっていたりします。怒りの本質がわかりますと、その関連性が全てわかります。見えてきます。

いじめ問題も怒りが原因

で、こうした心が強い子供は、ほぼ全てが、「親からの愛情」を受けていない子が多かったりします。

「拒絶されてきた」
「認めてくれなかった」
「見捨てられてきた」
「きちんと向き合ってくれなかった」

父親から愛情を受けていない、
あるいは母親からの愛情が無い。

どちかか片方の親に問題があっても、その子に問題行動が起きることが、ままあります。

自然な愛情を受けていない子供は「いじめ」を行う

自然な愛情を受けていない子供は、おおむね「いじめ」に走ったり、やんちゃになって、問題行動を引き起こしますね。

これは子供自身が、愛情を受けていない(拒絶されてきた)からだったりします。

だから当然の如く、周囲をも「拒絶」しまくりします。「怒りの行動」として他人にも当たるようになるわけです。

最近話題の事件にもあります。
両親からの適切な愛情が欠けていたから(拒絶される育てられ方をしたから)、仲良しの友人すら「究極の拒絶(殺害)」をしてしまう。

極端な理想主義も怒りのあらわれ

怒りの心が強いまま、これが社会に向けられると、極端な理想論に走ったりします。

あるいは、「お金儲けはダメだ」とかいった潔癖性となったり。「もうこの世には全く希望が無い」とかになっていきます。

メンタリティがどんどん窮屈になり、次第に視野も狭くなっていくこともでてきます。

自虐性も怒りのあらわれ

強い怒りが内向化しますと、「自分が許せない」という、自虐的なメンタリティにもなっていきますね。

「バカバカ、自分のバカ」と言ってみたり。
マンガにも出てきそうなセリフですが^^;、

これは昔の日本人に時々見られる、自虐的なメンタリティだったりします。

しかし窮屈なメンタリティでして、自滅に導きやすいものだったりします。

ですので、「切腹」といった自虐的な人生観が出てきたりしているんですね。

戦後から続いている「自虐的歴史観」をスンナリと受け入れて、やたらと「日本人はダメ」だとか、短絡的に言い出すこともそうです。

怒りにとらわれると窮屈になる

以上のように、「怒り」から生じる心や現象は数多くあるんですね。

で、怒りに取り憑かれ、これが常習となりますと、とかく生き方が窮屈になり、自滅する確率が高まります。

いつもイライラして、交感神経が高ぶり、病気にもなりやすくなります。

怒りは安全に生きるためのサバイバル機能でもある

しかし、怒りは、危険を回避して生き抜くためのサバイバル機能でもあります。

判断、分別、分析、予測といった思考作用も、怒りが根底にあることも少なくありません。

危険を回避して、安全な道を選択する際、冷静さとなれば、怒りは、怒りとしての感情を爆発させることはなくなり、知性へと昇華もしていきます。

怒りに結びつかないハートに支えられた知性が大切

しかし知性が過ぎると、冷たくなりますね。
これが、また別の問題でもあります。

この冷たさは、知性の根底に、怒りが関わっていることがあるからです。

怒りは、ハートとは真逆な性質です。
排除し、拒絶する性質です。

知性は、その性質上、分類し、取捨選択をします。この性質が、怒りの拒絶、排除と結びつきやすくなるわけですね。

だから、知性が過ぎると、冷たく感じるわけなんです。また、知性とハートが一緒になる領域からの知性の発揮、知性のあらわれが必要になるわけなんです。

ひらたくいえば、ハートに支えられた知性が必要ということなんです。

これこそが、怒りの性質に結びつかない知性になり、ハートのある知性として感じられるようになります。

とても大切なことなんですね。

怒りを断つ唯一の方法は「慈心」~お釈迦さまお勧めの方法

ところで「怒り」への具体的な対処方法として、お釈迦さまは「慈心」が特効薬であると言われています。

このことは「パーリ仏典 増支部経典 一集 第二 断蓋品」において説かれていることです。

「慈心」とは「いつくしみの心」のことをいいます。自分と他人のしあわせを願う気持ちですね。相手のしあわせを思う気持ち。

もちろん、自分がしあわせになることも思う。自分も他人も幸せであって欲しいと切望する気持ち。

これが「慈心」です。

お釈迦さまは、「慈心」を起こし、身につけることで、怒りの心はが生じることがなくなり、怒ることがなくなり、怒りの心そのものを断つことができると言われています。

しかも、これが唯一の方法であると言われています。さらに、「慈心による方法のほかは知らない」とまで言っています。

その上、「慈心」によって、怒りの大本である「瞋(じん)」という根本煩悩さえも断つことができると言われています。

また、「慈心」を修することで深い瞑想(禅定)にも至れるようになります。
ワンネスですね。

慈心で、ワンネスに至ることができるようになります。

ちなみに慈心で禅定に至ることを「慈心解脱」といいますが、これによって怒りが無くなるといいます。

「慈心」の効果はものすごいんですね。
怒りを打ち消すことができる特効薬なんですね。
すごいと思いませんか?

怒りを克服するには「ゆるし」「慈愛」「いまここ」

怒りには、いろんな表れ方があります。
拒絶、キライ、排除というのが、本質ですね。

で、この性質は、知性と絡みやすく、怒りと絡んだ知性は、冷たく感じられるということですね。

で、大事なことは、怒りが習慣化しないように、
怒りにとらわれ過ぎないように、
怒りと一体化しないように
気をつけていく必要があります。

そのためには「慈心」ですね。
裏を返していえば、他人も自分も「許す」気持ちですね。「ゆるす気持ち」を意識して身に付けていく必要もありますね。

「慈悲」とか「愛」というと、抽象的な感を受けることもあるかもしれません。

そういうときは、「許す」「許し」という言い方のほうが、身近でわかりやすいかもしれませんね。

他人も自分も、物事も社会に対しても、「許す」ことによって、怒りの心は鎮まってまいります。

また、「いまここ」「プレゼンス」「マインドフルネス」の習慣を持つようにして、思考や感情に巻き込まれないようにしていくことが大切ですね。

「怒り」の心の裏側には「こうであって欲しい」という、切ない気持ちや願い、満たされない気持ちがあります。

これに気がつくことで、怒りから解放もされる道も開けてくるでしょう。

多年を要する場合もあると思いますが、とにかく、たゆまずに継続していくことになるんじゃないのかなと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です