「異熟」とは、前世における死の刹那に形成された「来世の種(因子)」であり、その人を形作る重要なファクターとなっていきます。
そんな「異熟」ですが、実は、その生涯における幸福感につながる心でもあったりします。
簡単かつ、わかりやすく言ってしまいますと、自分の「異熟」に沿い、「異熟」を活かした生き方が、「幸福感」につながっていきます。
逆に、自分の「異熟」を抑え込んだり、無いものを求めたりすることは、大変なストレスになったりもします。
ですから、世間での価値観、ものさし、常識で判断する以前に、自分の「異熟」に合致する生き方がおすすめになるわけです。
なぜなら、その人自身の幸福感につながっていくからです。簡単明瞭な原理原則です。
よくスピリチュアルの世界では「自分探し」といっていますが、これが真我探求なら別ですが、「自分」というのが「異熟」であることが、案外多かったりします。
ですので、通俗的にいえば、自分の「異熟」を知ることこそ、自分を知ることにもなったりします。
このことは、そんなに難しいことでもなかったりします。自分の幼少期をふり返れば、見えてくるからです。
常々、「世間での価値観や常識なんぞにや、振り回されるな」と周囲にも言っていますが、これなんぞは、まさに「異熟」的発想があるからです。
もっとも、世間の価値観や常識と、自分の「異熟」が一致している方もいます。
こうした方の場合は、世間の価値観や常識を云々することはあまり無いのか、あるいは、こだわりそのものが少ないこともあります。
ただ、いずにせよ、自然であることが望ましくなります。ゴチャゴチャとした余計なことを考えたりしなかったり、要らない望みを多く抱えないことですね。
ところで、周囲と軋轢(あつれき)を生み出す趣味や嗜好、あるいは犯罪につながるような「異熟」を持っているケースは厄介です。
これは陶冶(とうや)する必要がでてきます。それこそ、スパルタ式ではありませんが、矯正するとか、そのエネルギーを社会問題とならない方向に仕向ける必要も出てきます。
しかし、ほとんど多くの場合は、問題の無い「異熟」ですので、その人なりに、素直に生きていけば、それでよかったりします。基本的には。
良き「異熟」とし続けるためには、良き行為、良き考え、良き言葉を続けていくことになります。
このことは、仏教で言うところの「五戒・十善戒」だったりします。だからこそ、「五戒・十善戒」が重視もされていくわけですね。
平たく言えば、「五戒・十善戒」を何故、守るかといえば、「よき状態の異熟を形成するため」ということであって、これがそのまま、自分の幸福や幸福感につながるからです。
「五戒・十善戒」は、幸福を感じやすい、また幸福となる長期視点に立った、シンプルかつ核心的な実践行だったりします。
決して道徳的云々というような、訓戒的な意味合いではなかったりします。