イエス・キリストの性格とは?
イエス・キリストの性格はよくわからないところがあります。
福音書に伝わるイエス・キリストは、
- 律法を守る【マタイ5章17 律法について】・・・イエスは律法を重視。ちなみにキリスト教を作ったパウロは律法は役に立たないと力説(イエスの教えと異なる)。
- 親切心を持つ【マタイ25章31 羊と山羊のたとえ話】・・・万人に親切にする者が神の国に入ることができる(イエスへの信仰は必要ない)
実は、この2つを説いた方だったりします。で、この2つから、イエス・キリストは「律法」を守り「親切心」を大切にしていた性格だったのが浮かび上がってもきます。
ちなみにこの2つを守ることで誰でも神の国に入ることができると言っています。別段、イエスを信仰しなくてもOKであると。
イエス・キリストは隣人愛に富む公平な性格?
で、以上シンプルなことから、イエス・キリストの性格は、
・律法重視
・親切心(隣人愛、慈悲)重視
・特定の宗教の信仰を奨めない
という性格(考えの持ち主であること)が浮かび上がってきます。
ちなみに、イエスと同じ頃にイスラエルのガラリアで活動していたユダヤ教の聖者であり奇跡を起こしていた「ハニナ・ベン・ドーサ」も、「人間から好意を寄せられる者は、神から愛される」とも言っています。
ハニナ・ベン・ドーサ~イエス・キリストと同時代にいた奇跡を起こす人
やはり親切心・愛は必須になるわけですね。で、モラルを適切に守ることと、親切心は欠かせません。で、これがイエス・キリストのパーソナリティーであったこともうかがえます。
聖書にみられる怒りっぽいイエス
ところでイエス・キリストは、ユダヤ教(特に律法を重視するファリサイ派)に対して、強く否定したり、時に挑発してファリサイ派に嫌味な態度を取っていました。
で、腕っぷしが強く、短気でやんちゃ(暴れん坊)なイエスの姿が随所に描かれています。こうした男気があるといいますか、短気で怒りっぽいイエスの言動は、新約聖書の福音書にわりと伝承されています。
たとえばマルコの福音書から抜粋しても、これだけあります。
- 病気治しのときに怒った(すべてマルコ。3章5、9章19、10章14)
- ファリサイ派へ挑発的な態度を取り続けた(2章9、2章17、12章12、12章24)
- 上から目線の言い方(7章18、8章17、8章33)
- 過激な言い方(9章42)
- 差別的な言い方(7章27)
- 風を叱りつけて風を止める(4章39)
- エルサレム神殿で暴れた(11章15)
ユダヤ教のメシアとは強くて勇敢な王~イエス・キリストは非ユダヤ型のメシア
果たして福音書の記述がどこまで正しいのか。イエスの実像をどこまで正しく伝えているのかは、そもそも疑問な点もあります(福音書はかなりの創作ではないかと思っています)。
が、福音書に伝わるイエスには、攻撃的、怒り、暴力的(エルサレム神殿の出店を破壊)な姿もみられます。
弟子達がイエスのイメージを作った?
こうした過激な言動も原因で、イエスは政治犯として逮捕されて処刑されてしまったようなんですが、この流れはもしかすると弟子達によって画策されたものだったのではないかと勘ぐってもしまいます。
つまりイエスをユダヤ教のイメージに合致したメシアにするために、あえて旧約聖書に伝わる予言に一致させた。で、政治犯に仕立てて、処刑へと誘導した。弟子達が。
イエスを裏切ったのはユダだけではない。ペトロ達も実は実行犯だった。だから彼らはイエスが逮捕されたとき逃げた。ペトロにいたっては三回も知らないと言ってシラを切った。
これは壮大な妄想かもしれませんけどね。
ユダヤ古代誌第18巻63-64節に伝わるイエス・キリストの伝承
ちなみにユダヤ古代史の権威書であるフラウィウス・ヨセフス著「ユダヤ古代誌 第18巻63-64節」には、イエス・キリストのことが少しだけ記述があります。
しかし後のキリスト教徒が書き込んだ可能性もあるとして、16世紀から真偽が議論されています。つまりユダヤ古代史に最初から記載されていたかどうか疑わしいということです。しかしながらその一節をご紹介します。
イエスス・クリストスの生と死と復活
さてこのころ、イエススという賢人実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば――が現われた。彼は奇跡を行う者であり、また喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた。彼こそはクリストスだったのである。ピラトスは、彼がわれわれの指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。すると彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。すでに神の預言者たちは、これらのことや、さらに、彼に関するその他無数の驚嘆すべき事柄を語っていたが、それが実現したのである。なお、彼の名にちなんでクリスティアノイ(特製椒)と呼ばれる族は、その後現在にいたるまで、連綿として残っている。
ユダヤ古代史は全20巻からなる大著です。しかしイエス・キリストの記述は非常に短くなっています。このことから、当時、イエスはマイナーでほとんど無名な人だったことがわかります。イエス・キリストの名を広めたのは、後のキリスト教徒だったことがわかります。
ヒーリングができる人は慈愛に富む性格
ところで外典(「マグダラのマリア福音書」や「トマス福音書」)に伝わるイエス・キリストの姿は、高邁な教えを説く哲学者、ヨーギーの姿だったりします。
新約聖書の福音書はまったく違うイエスのイメージが、マグダラのマリア福音書などの外典にあります。
トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕! マグダラのマリア福音書のイエスの教えはヨーガ的
そもそも奇跡を起こす能力の持ち主は皆ハート系(慈愛にあふれる人)です。イエスも当然、慈愛にあふれる人物になるはずです。
これは同時期にイスラエルに登場した奇跡を起こす聖者「ホニ・ハメアゲル」「ハニナ・ベン・ドーサ」にもみられる性格です。
奇跡を起こす力の源は「愛」です。したがって「奇跡を起こせる」という観点からいえば、ホニ・ハメアゲルやハニナ・ベン・ドーサ、そうしてイエスも「愛」が豊かだった人になります。
ホニ・ハメアゲルほか~イエスと同時代にいた奇跡を起こした者 ハニナ・ベン・ドーサ~イエス・キリストと同時代にいた奇跡を起こす人
マタイ福音書とトマス福音書にみられるイエスの性格
ちなみに「マタイ福音書」と外典「トマス福音書」にはには、やさしい性格のイエスを伝える節があります。
マタイ福音書11章28-30が伝えるイエスの性格
マタイ福音書11章28-30 わたしのもとに来なさい
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき:馬車をつなぐ棒)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
新約聖書の福音書で描かれるイエスは、上記の説明の通りで、男気があって腕っ節が強く、怒りっぽく暴れん坊なやんちゃにも描かれています。「オラオラ感」があります。
しかしこのマタイ11章の一節は、翻訳のせいなのか上から目線な言い回しがあるものの、イエスは相手に対してストレスを感じさせない上に、やわらかくもハートフルな人間であることを伝えています。
ちなみに聖書では唐突にこの文言が出てくるため、違和感があったものです。しかし外典とされているトマス福音書にも同様の記述があるんですね。
トマス福音書90節が伝えるイエスの性格
トマス福音書90節
イエスは言われた。私のもとに来なさい、私のくびき(馬車をつなぐ棒)は負いやすく、私の支配は優しいからである。そして、あなたがたはあなたがた自身に安息を見出すであろう。
ご覧の通りです。マタイとほとんど同じなんですね。で、同じように「オラオラ感」がありません^^;ストレスフリーなやさしいイエスの姿を伝えています。
やはり四福音書は、イエスにカリスマ性や腕っ節の強い軍人のような男性、あるいはヨハネ福音書に顕著なんですが「オレは神の子だ」といったゴリ押し感が目立ちます。
その点、マタイ福音書11章28-30節やトマス福音書90節は、オラオラ感やゴリ押しがない「やさしいイエス」の姿があります。
で、ヒーリングなどの奇跡ができる人は「やさしい性格」が多くなります。
ですので文脈的にいっても、マタイやトマスによる福音書の記述(やさしいイエス・キリスト)ほうが妥当性があります。
新約聖書の福音書に伝わるイエス・キリストの性格は疑問
やはり福音書に伝わるイエス・キリストの「腕っぷしが強く、短気でやんちゃ(暴れん坊)」な姿は疑問な点があります。
同じイスラエルに登場し同じヒーラーだったホニ・ハメアゲルやハニナ・ベン・ドーサとも異なりますしね。
矛盾を感じさせます。聖書にある福音書の記述はおかしい。
もっともルカ福音書になると、イエスが逮捕直前のときにペトロが司祭の耳を切り落としたもののイエスは司祭の耳を治癒したり、磔刑のときも「彼らは自分で何をしているのかわからないのだ」と同情する様子を伝えています。
しかしルカ福音書は、筆者による創作もかなり多く、パウロ教の教団案内パンフレットのような文書ですので信用できません。使徒言行録もそうです。創作が多い印象。ルカの文書は文学作品なので参考程度。
で、新約聖書の福音書全体の印象としてのイエス・キリストの姿は、ヤンキーなところがあります。やはり弟子達による錯誤か意図的な書き換えなのかもしれません。
そちなみにホニ・ハメアゲルやハニナ・ベン・ドーサは、伝統的なユダヤ教の中では尊敬されています。人格が良かったという伝承もあるくらいです。実際、温厚な性格だったのでしょう。
であれば、ヒーリングができたイエスも同じように「やさしい性格」「温厚な性格」だったのではないかと思います。
イエス・キリストの性格は慈愛に富む性格
新約聖書の福音書に伝わるイエス・キリストの性格だけを追っていくと、首をかしげる点が多々出てきます。それは上記で書いた通りです。
奇跡を起こすことができる人は慈愛に富む人になります。特に癒やし(ヒーリング)ができる人は、隣人愛・慈悲にとても富む人です。
なぜなら奇跡やヒーリングを起こす源はハート(隣人愛・慈悲)だからです。必然的に慈悲の強い人になります。
そうなると福音書に伝わるイエスの短気さ、怒り、暴力性は疑問も出てきます。
ハートチャクラが不良化してた?
ただ一つ考えられることは、イエス・キリストの奇跡の能力は、実はそれほど強いものではかったという仮説です。
ハートチャクラの不良化が起きると、短気、キレ易い、攻撃性となって出る場合があります。
もしイエスが、ハートチャクラがきちんと開花していなかったならば、性格に偏りが出てくることもあり得ます。
しかしなんとなくですが、イエスが過激な性格だったというのは、ひっかかるものがあります。
やんちゃなイエス・キリストの性格は聖書作者によるもの
結局、聖書作者や弟子達による、何らかの意図があって、聖書のイエス・キリスト像になっているのではないかと。
その推理は、こちらにも書きました。
イエスがメシアになった理由~イエスは新しいメシア像だった ユダヤ教のメシアとは強くて勇敢な王~イエス・キリストは非ユダヤ型のメシア
で、当時のイスラエルや地中海沿岸の事情、つまりローマ帝国に圧政を強いられる事情もあって、弟子やパウロ達がイエスを祀って宗教化していく中で、イエスを他の聖者と差別化・特別化する必要性を感じて、意図的にイエスの性格などもデフォルメしたんじゃないかなあと思います。
こうしたことは新興宗教が誕生するプロセスと基本的には同じです。
まとめ
新約聖書の福音書に描かれるイエスは、イエスの一面に過ぎないのでしょう。といいますか、イエスの言葉や行動の表面的なところしか理解できなかった人達による描写でしょう。
あるいはイエスに対して「強いメシア像」を期待していた人達が描いた姿。
つまり「事実(イエスの姿)をあるがまま」に受け止めず、自分達の願いや理想を投影したイエスを描いた。それが新約聖書に出てくるイエスの姿。
だからイエスの人物像も元々の「やさしくて温厚な性格」ではなく、ユダヤ教に伝わる「強くてたくましい軍人型のメシア」像として描かれてしまった。
そうしてイエス・キリストは信仰の対象に祀りあげられたんじゃないかと。
結局、福音書に書いてあるイエス・キリストの姿は、創作・フェイク。ほとんどが事実ではないと思います。結果的にフェイクになっている。
で、福音書そのものがほとんどがフェイクなんでしょうね。
「神の国は人々の心の中にある」と説く外典の「トマスによる福音書」や「マグダラのマリアによる福音書」。
こちらのほうがいろいろと納得ですし、本当のことを伝えているんじゃないの?とますます思えてきます。