人間臭いイエスと十二使徒

イエスはキリスト教を作っていない

キリスト教は、イエスが作ったものではないんですよね。

キリスト教という宗教は、イエスに一度も会ったことのないパウロらが中心になって形成した新興宗教です。

なので本当は「パウロ教」です。

で、創始者のパウロらが初代教会を作り、共同体を作り、奴隷や女性、子どもといった知的理解が乏しい人達を中心に地中海沿岸の広まり、その後、布教によって世界宗教へと発展していったわけです。

キリスト教は、イエスが作った宗教ではないんですね。パウロが作った宗教。なのでいろいろと問題もあります。

キリスト教を簡単にいえばイエスの「死」「復活」がキモのユダヤ教

キリスト教はユダヤ教の延長にある

たとえば、キリスト教は独善的にになり、キリスト教を信じない人を侮蔑したり、排他的になってしまった歴史があります。事実、ユダヤ人への迫害、十字軍の遠征など、独善的な態度が目立ちます。

とはいっても、キリスト教もそもそもイスラエルの宗教(ユダヤ教)にルーツがあります。

で、そのイスラエルの宗教の旧約聖書には、異教徒殺害を肯定するおかしな神も登場しています。なので、そもそもとしてイスラエルの宗教は、全体的におかしいんじゃないかと思います。とゆーか、預言者のエゴが混在していて、どうにもこうにも。

まさに四天王界の最下層にいる悪いヤッカの産物ではないかと思います。

事実、グノーシズ主義では、ユダヤの神は「ヤルダバオート」という邪神といっています。おそらく、この通りであろうと思います。

グノーシス主義ではアイオーンとは梵天の神のこと

こうした問題を含むユダヤ教の延長に、キリスト教が形成されています。なのでキリスト教の教義自体に問題を含むのは当然の帰結じゃないかと思います。

イエスの十字架の死と復活信仰がキリスト教だが・・・

イエス亡き後、イエスに一度も会ったことのないパウロ達が中心になってキリスト教が作られたわけですが、イエスが復活したり(生き返ったり)、イエスが亡くなった後に奇跡や奇瑞が起きたこともあって、イエスを信仰するキリスト教が誕生したんでしょうが、奇跡奇瑞への驚嘆から「キリスト教」という宗教が形成されたとみることもできます。

けれども、これはいわば、Mrマリックが100円玉にタバコを通すのを見て「すごいー!」と感嘆して、「Mrマリック教」を作るとの、そう変わりがありません。本質からいえばそういうことになります。

なのでなんていいますか、イスラエルの民もそうですが、当時の人達の理解力や受け止め方といった認知が微妙といいますか、稚拙であり、その稚拙なレベルの中で誕生したのキリスト教といえます。

こういう言い方をすると、キリスト教を信奉する方は気分が良くないかもしれませんが、冷静になって事実を理解していくと、上記のような見解になります。おそらく普通に理解力があれば同様のことを思うでしょう。

人間臭いイエスと十二使徒

しかし「愛」の塊であるイエスであったり、「愛に目覚めた」十二使徒といっても、実はイエスにしても十二使徒には、非常に人間臭いところがあります。煩悩まみれということですね。

イエスにしても、十二使徒にしても、人間臭く、時に俗物性を見せていたことは、聖書を読むと浮かび上がってきます。

これを受け入れない、否定するのは、ちょっとよくないかな。事実は事実として受け止める。で、どうしてそうなのかを理解することが大切でしょう。

では、人間臭い野卑な一面を持ったイエスや十二使徒とは、一体、どういう姿なのでしょうか?ダイジェストでご紹介します。

挑発的で暴れん坊だったイエス

イエスに関しては、ファリサイ派の司祭を挑発するような言動を取っているんですね。

司祭が監視している中、安息日にあえて仕事(ヒーリング)をしてみたり。司祭が見ていないところでやればいいのに、司祭の怒りを呼び起こすような挑発的言動をしています。

なんでわざわざ司祭の前で行うのか、微妙なんですね。あてこすりもいいところ。

またイエスが磔刑にされる直接の原因となった「宮きよめ事件」。これはイエスが激昂して、神殿の前で商売している人達のお店を「おりゃー!」といって壊しまくる暴力事件です。

イエスって結構、カっとなりやすい激昂的なところや武闘的なところがあるんですね。

そもそも数々の物理的な奇跡(水をワインに変えるなど)を起こしていますので、丹田系のエネルギーも強いことがわかります。

なので、イエスの性格には、一面オラオラ感があったんじゃないと推測します。ハートにあふれているのも事実だったと思いますが、その反面、ムっとしたり、攻撃心を出すこともあったんじゃないかと思いますね。

丹田系に多いタイプです。

で、仏教の修行の物差しでいえば、イエスの状態は「まだまだ未熟ですね」となります。

が、当時の人達にふさわしいレベルの方だったのではないかと。当時もそうですが、隣人愛、ハートに目覚めることは必要。なので、彼らにふさわしいレベルの使いとして、闘争本能が強めの生命体としてのイエスが使わされた(登場した)とも考えられます。

十二使徒も俗物性が強かった

十二使徒においては、銀貨30枚でイエスを売り渡した「裏切りのユダ」は有名ですね。自分の師匠・先生をお金で売っちゃうんですから、「なんじゃこりゃ」レベルですよ^^;

でも「愛」に目覚めていたんですね、ユダっちも。で、ここに高次意識の理解のヒントがあります。ユダっちからは、意識の構造と働きを学ぶことができます。

また十二使徒のうち、代表的な使徒だったヤコブとヨハネは、イエスを「神の王国」を作る統治者とみなしていたんですね。つまり世界の王とみなしていた^^;

で、ヤコブとヨハネは、「イエス様が神の国を作った暁には、私たちを重鎮(臣下)にしてください」と、俗っぽい願いを臆面もなく言っています。

ちなみに、イエスは、彼らの発言を聞いて、バッカモーン!と叱りつけます^^;当たり前です。

イエスの弟子のトップ2でさえこんなレベルです。しかも先生をお金で売る弟子もいたりして、イエスを取り巻く人間模様はカオスです^^;

イエス一行は非業の死を遂げる

ちなみにイエスは最後は政治犯として逮捕され、磔(はりつけ)にされて、手足に釘をガンガン打たれて処刑。

無実の罪で政治家を殺害するのは、現代の西洋社会でも起きています。フセインやカダフィーの殺害はそうですからね。西洋人の自己中のぶっ飛び具合が、今も相変わらずってところなのかもしれません。もはや病的です。

で、十二使徒のうち、ヨハネ以外は全員、他殺か自殺。首を切られたり、十字架に吊されて殺されたり、暗殺にあったり、ノコギリで切断されたり、棍棒で頭を割られたり。

殉教なんですが、非業の死です。悲惨。イエス一行は、ヨハネ以外は全員、非業の死を遂げているわけですね。

それだけトンデモな時代だったともいえます。リアル・マッドマックスの時代。

で、そんな異常な社会と人間たちを、真っ当な方向に導くために、命がけでイエスが登場した(天界から使わされた)と考えるのが妥当だと思います。

「ならず者が多かった」時代背景を踏まえることは大事ですね。またどう見ても日本人には理解できない殺伐とした民族性も理解する必要があると思います。

キリスト教の理解で大事なイエスと十二使徒の俗物性

こうした人間臭い俗物性をどう解釈するかが、キリスト教を理解する上でのハードルにもなっています。

が、これは「高次意識」の構造と働きを知らないと理解できないかもしれません。

イエスも十二使徒も聖霊体験をしていた。愛を体現していた。しかし、それとは別の心もあったということです。

意識は多層構成になっていて、本能、感情、理性の構造になっていて、それそれが縁によって出てきます。

で、聖霊体験をして愛に目覚めると、至高意識・愛が生じます。で、本能、感情、理性、至高意識・愛の4構造になります。しかし、それでも時に本能(怒り、暴力、野心、俗物性)が出ることもある。

ここの理解は大事です。イエスにしろ十二使徒にしろ、本能がありますので、条件(縁)次第では煩悩やらの俗物性が出てくるわけですね。

この話しは、こちらに続きます。

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