いろいろと思うのは、人は、何かを達成し続ける、そのプロセスや、その目標を達成したときに、いわゆる「しあわせ」を感じるんだなあ、と。
ええ。こういうのが圧倒的に多いですし、そういうもんですね。
子どもの頃から勉強に励んで、良い学校を目指し、良い会社を目指し、良い給料を望み、より良い人生を望む。
その「良い」とは、畢竟、「喜楽」なわけですね。よろこびとたのしさ。その充実感を得るために、いろいろと頑張るわけです。
で、それはそれでいいんですね。そうすることで生活も成り立ちます。大事なことだったりします。これは、これでいいんです。これを否定するのは、むしろおかしい。感心しません。
ただ、こうした目標なりを達成した瞬間に、「よろこび」「しあわせ」を感じつつも、途端に色あせて感じ始めます。
あるいは、その幸福感を永続させようとしたがったり。また、その幸福感がいつまで続くのかといった不安が出てきたり。
こうしたことは、大なり小なり、誰もが体験しているはずです。
そう、いわゆる「しあわせ」とは、実に「はかない」性質があったりするんですね。
取り組んでいる最中は、将来への夢や期待が昂じて幸福感をおぼえることもあります。
が、その目標なり夢が実現すると、途端に色あせ始めます。で、失うことへの不安も出てきたり。
で、ブッダは、この性質を「苦(はかない、むなしい)」と言っているんですね。どんなに幸福なことでも、「苦」を内在させている。
ブッダが言う「苦」とは、痛みとか苦しむという意味というよりも、「虚しい」「はかない」という意味ですね。
だから、少し賢い人は、こうした性質を超越した「楽」を求めようとするんですね。それが「悟り」であるとか、「解脱」というものですね。
で、悟り、解脱に至らなくても、そのプロセスであっても、何物にもよらない自然(じねん)にわきあがる喜びや楽といった世界といいますか領域に開かれていくようになります。
そうした自然(じねん)な喜びや楽は、
・あるがまま(いまここ)
・気づき(プレゼンス)
・慈悲、ハート
・禅定
・空(一瞥体験)
にあったりもします。
これらは、
・瞑想(あるがまま)
・自己観察
・自然体
・利他、ほどこし、やさしさの実践
・ヨーガなどのボディワーク
・祈り
・森羅万象が無常であり、無我であり、苦であることを考察し続けること
などの高次の行為を続けている中で、生まれやすかったりします。
こうしたことを続けていく中で、感覚器官や思考を満足させる喜楽とは異なる領域にシフトしていくこともできます。
思うのは、やはり、こうした高次元の領域へ開けていくことが大切なんだなあ、ということです。
五感や快楽を満たす喜楽は、やっぱりはかない。切ない。虚しい。そういうのが、後で生じます。お祭りや宴が終わった後の気分ですね。
しかし、こうした五感を刺激するのとは異なる性質の喜楽があるってことですね。
ちなみにくどいようですが、こうした五感の刺激とか、そういう感覚を、いたずらに否定するわけではないんですね。
悟りの文脈では、こうした感覚を否定的に表現します。が、それは「否定的な性格」の延長にある自己表現ではないんですね。
ともすると、悟りの文脈では、否定的な性格的の人が、仏教の否定的な表現に共鳴して、その否定的な性格を増長していることが少なくありません。しかし、これはよろしくない。
そうした否定的な性格の延長に、現世を否定する悟りの表現があるわけじゃあないんです。
ここはすごく大切なことですので、あえて強調して書いてみました。
で、話しを戻しますが、五感を刺激するのとは異なる性質の「喜楽」があるんですね。ええ、あるんです。で、まずは、これに開かれていくこと。自然(じねん)と生じる喜楽に開かれていくこと。
そうすると、五感を刺激する人生上の様々なことも、そこそこで満足したり、「そういうもんだ」という感謝の気持ちがありながらも、適度な有り様で充分満足するといった自然な気楽感に変容してまいります。
これが五感をダイレクトに満足させる従来の有り様とは、質的にも異なる有り様だったりします。
・慈悲、ハート。
・自己観察。
・あるがまま。
この3つは取りかかりやすいアプローチだと思います。
ある人は、マインドフルネスを続けている中で、ジャンプしています。覚醒が起きています。
不思議なことに、話しをよくよく聞いて見ると、マインドフルネスの根底に、慈悲、簡単な戒め(道徳、倫理観)があったことがわかります。
仏教では、戒律といっていますが、そんなに重たくなくていいんですよ。キリっとし過ぎなくていんですよ。
簡単な倫理観といいますか、マナーといいますか、そういうやわらかい感性ですね。そういうやさしい倫理的な感性が、やっぱり大切なんだと思います。
もちろん人間ですので、失敗したり、魔が差してトンデモなことをすることもあります。
でも、それはそれ。方向性がどうなのかってことですね。
で、慈悲や施す気持ち。
この2つが基盤となって、マインドフルネスや自己観察をしていきますと、あるとき、ジャンプ(一瞥体験)が起きるのではないかと。
かの世界にジャンプ(一瞥体験)する人を増やしたい。そういう思いがあります。いろいろと試行錯誤しながら、試みたいとも思っています。
ひとたびジャンプ(一瞥体験)しますと、その後のアプローチが適切ですと、その人には、軽いワンネス感が生じ、恒常的な幸福感、喜楽感、慈悲の思いに満たされるようになります。
ところで一瞥体験は貴重な体験です。しかし一瞥体験は悟り体験ではありません。
悟り体験は、認識がいったん死にきります。自分で悟っている体験はありません。
一瞥体験は、認識が死に切りません。だから悟っているらしい体験が残るわけです。で、一瞥体験は悟り体験ではありません。悟り損ねです。
人生の目標は、悟り体験です。一瞥体験ではありません。しかし一瞥体験も無意味ではありません。「よりよい人生」という意味においては有益になります。
ちなみにマインドフルネス本でおすすめなのが、こちらですね。これは単なるマインドフルネス本ではないんですね。一瞥体験が起き得る指南本でもあります。
なお、このマインドフルネスの方法では、悟ることは難しいと思います。おそらく悟ることはできないんじゃないかと思います。
なぜならマインドフルネスや気づきはDoだからです。