一瞥体験は悟りではない
いわゆる「一瞥体験」は悟りではありませんね。
実は私も一瞥体験をしています。
で、その後の真我意識の拡大にもある程度、うまくいきました。一瞥体験についてはかなり知っているほうだと思います。だからこそ一瞥体験は悟りではないと言い切れるんですね。一瞥体験は悟りではありません。
一瞥体験と悟りとは異なる
で、一般的にいわれている「一瞥体験」は真我体験なんですが、真我体験と悟りとはまったく異なります。それは
・真我体験・・・悟り体験を認識している(体験がある)。
・悟り・・・悟り体験を認識できない(体験がない)。
ということですね。両者は体験そのものが決定的に異なります。
・真我体験・・・悟り体験を認識している。
・悟り・・・悟り体験を認識できない。
ということです。
悟りは体験が無い
で、悟り体験は体験がありません。
なので「正真正銘の無我」になります。
で、正真正銘の悟りが起きたときは、
・私は無い
・世界がわたくしだった(I AM)
・いまここしか無い
・過去も未来も無い
・すべては愛だった
などなどの体験は起きないといいます。
禅や原始仏典に伝わる悟り体験
事実、原始仏典や禅の古典にも
・頭をまくらに付ける瞬間に悟った(アーナンダ)
・うちわでブッダを扇いでいるときに悟った(サーリープッタ)
・首になわをかけて自殺しようとしたときに悟った(テーラガータ)
・竹に石が当たったときに悟った
・カーっと咳払いをしたときに悟った
といったように悟ったときの様子しか伝承されていません。
間違った悟りが広まっている
アドヴァイタや一般的な禅、最近多いノンデュアリティでは「悟り体験」を語っています。
が、これらは厳密にいえば悟りではないといいます。少なくとも「ブッダが説く悟りではない」といいます。
このことはショッキングだったり、目が点になるかもしれません。で、どうやら「別の何らかの体験」になるようです。
で、こうした「別の何らかの体験」は「真我体験」といったほがよいのではないかと思っています。
が、こうした真我体験が悟りとも言われていて誤解がひろまっています。
一瞥体験(真我体感)と悟りはプロセスが異なる
悟りと真我体験(一瞥体験)とは、その体験のプロセスがまったく異なります。
悟りでは認識がいったん停止(ミュート)します。
が、真我体験(一瞥体験)は認識が一時停止しません。
停止しないので何らかの体験(私はない、世界が私だった、すべては愛であるなどなど)をするという塩梅です。ここが決定的に異なります。
ただし悟りや深い真我体験をした後は、どちらも「私はない」「いましかない」といった意識になることがあります。
けれども、そのプロセスとメカニズムが異なるんですね。つまり、
◆悟り・・・「自分という認識」が根絶される。苦しみと迷いの根絶。元に戻ることはない。
◆深い真我体験・・・自己が拡大して「自分という認識」が弱まる。苦しみと迷いは弱まるけども根絶はしない(元に戻ることも)。
ということでして、まったく異なります。
一瞥体験(真我体感)では有身見が残る
「深い真我体験」をすると、自己という感覚(認識)が弱まります。
が、厳密には有身見(うしんけん:私はあるという認識)は残っているんですね。
いわば「無色界禅定」のような状態です。自己がきわめて希薄になる。けれども「自分」という認識の煩悩は根絶されていないんですね。
覚者の多くは悟っていない可能性が高い
で、世間で「覚者」と言われている方々はほぼほぼ「深い真我体験」になると思います。
しかし悟りも真我体験も、どちらも表向きの言葉は似ているところがあります。「私はない」「今しかない」「過去も未来も無い(感じない)」などなど。
けれどもそうした有り様に至ったプロセスがまったく異なり、それが雲泥の差になるといいます。
悟りは元に戻らない。迷いが無くなる。真我体験は元に戻ることがある。迷いがある。決定的な違いですよね。
悟りと真我体験は、表向きの言葉だけでは本当に悟ったのかどうかの判断がつきかねます。難しいですね。
そんな難しさが、悪用されるケースもありますね。おかしなYouTuberも出てきます。ここは注意しないとなりません。
悟りは悟り体験を認識できない
このように悟り体験を認識していない(できない)ほうが本当の悟りといわれています。
ですので世の中にある一瞥体験や覚醒体験が、本当の悟りなのかどうかを見極めることは、体験者の話しでおおよそわかってしまいます。
結局、悟りとは、悟りの体験がなく、認識の有り様が変わってしまうこと。で、このことは禅に最もよく伝わっています。
アドヴァイタをはじめ欧米に多い覚者の話しや体験は理解できます。が、禅で悟ったという人の話しは理解できません。ここが決定的な違いだと、今は思うようになっています。
真我体験も貴い
が、真我体験も尊く貴重だと思います。高い意識にひらけ、時間の経過とともに能力の拡大が起きる場合もあります。これはこれで有益です。
で、悟りだけでなく、真我に開けることもまた大事じゃないかと。で、この2つを満たしているのがブッダが提唱した道だったんじゃないかと思っています。
真我は、世界の平和や健全な発展に与する性質がありますね。創造性との親和性もあります。これから訪れるAI時代では、AIに対抗できる精神性を生みだす意識になるんじゃないかと予感しています。
文明が高次元化するに従い、人間の意識も必然的に高次元化することが求められるのではないかと。AI時代には、真我に開眼する方法に関心が集まり、新しい自己啓発の潮流となるんじゃないかと予感しています。
若い人は真我にひらける可能性がある
で、特に若い人達の間に、その萌芽(下地)が見られることがあって、おそらく将来、自然なかたちで突如、真我に開眼する人達が続々出てくるんじゃないかと、これまた予感しています。
で、AIによる全体主義ではなく、より高い自由な時代へと向かうのではないかと、期待を込めて願っています。
ちなみに日本では、緊縮財政から財政拡大の流れに転換してきているといいますね。なんだか希望もあります。豊かで精神性の高い日本であって欲しいですよね。