一瞥体験が起きるメカニズム
真我に到達する方法を実践していると、一瞥体験が起きるようになります。
要諦は「真我を感じ取ることができるようになる」点です。
で、真我を感じるようになると、ある日ある時、突然、不意に意識の拡大が起きます。意識が拡大する時「私はない」という感覚になります。
これが一瞥体験、あるいは目覚め体験、覚醒体験といわれている体験です。実は、この背後にエネルギーの発動が起きています。
一瞥体験には深浅がある
ちなみに「一瞥体験(チラ見体験)」なんて言われていますが、実際は変容体験です。意識に変容が起きます。
しかし浅い体験の場合は体験しか残らず、まさに「チラ見」のような体験だけで終わるかもしれません。
ほとんど知られていないことですが、体験には人によって浅い深いがあります。
以前書いた「綱島梁川(つなしま-りょうせん)」の体験は、一人の人間の上に起きたことですが、見事に体験の浅深を示しています。
アドヴァイタ系覚者は深い一瞥体験が起きている
アドヴァイタ系で覚者といわれている人のほとんどは深い体験が起きています。
深い体験になると自己の感覚が希薄になり、日常的に「私はない」といった感覚になりやすかったりします。
厳密には「私はある」という意識があるのですが、広がる意識が「私はない」と感じさせます。なので「悟った」と言うんだと思います。
アドヴァイタ系覚者のは悟りではない?
しかしこの有り様でも悟りではありません。意識が拡大化・高次元化していて、これ自体は尊いんですが、認識・認知に根本的な変容が起きていないんですね。てか起きないんです。
起きたかのように感じることがあっても実際は起きていません。たとえていえば「無色界禅定」のような状態です。
三結は断たれていません。有身見は残っている。認識・認知に記憶が絡まない変容が起きた上での「私はない」でなければ悟りではないんですね。
仏教の悟りは真我意識を足場にしている
ちなみに仏教では、真我的な意識を足場にして「何もしない」という有り様に至り、そうして悟りへ向かうというプロセスを取っているんじゃないかとも思います。その典型が禅定を経由して智慧で悟るという王道プロセスですね。
真我と悟りとは違いますが、真我にひらける自己観察の本質は「感受力」と「洞察力」。シャープな感性と洞察力によってブレイクスルーしやすいと思います。