身体が光る
人間の能力にはまだまだ未知なる部分があって、実に精妙に出来ているところがあったりします。
中でも「身体が光る」「細胞が光を放つ」というのは摩訶不思議なことだったりします。
人によっては眉唾に思われかもしれません。
しかし、身体・細胞が光るというのはまんざらでもなく、ゆる体操の高岡英夫さんは、幼少の頃、自分の体が光っていたといっています。
この本に書いてあります。
怪訝に思われるかもしれませんが、身体は発光し、中でも発光しやすい部位もあったりします。
丹田光
身体のうち発光する部位で有名なのは「丹田」でしょう。いわゆる「丹田光」です。
丹田呼吸をしていくと、丹田の辺りから光が出てくるようになります。
また丹田光が出ていることがわかるようになります。
丹田光は、能力者以外の第三者が見てわかることはありません。
実習者には、目の前にぼわーっと光が出てきたりして、丹田からの光を視覚で感じるようになります。
ニミッタ
あとテーラワーダ仏教ではアーナパーナサティによる「ニミッタ(似相)」がそうです。
アーナパーナサティの瞑想を続けていると、「ニミッタ」といわれる光が目の前に現れます。
「宇宙人の魂を持つ人々」の著者スコット・マンデルカー氏も、若い頃、タイで長期間、瞑想修行をし、鼻の先にピンポン玉に似た光りの玉(ニミッタ)が出てくるようになったことを、著書で述べています。
ワンダラーの特徴・悩み~宇宙人の魂をもつ人々(スコット・マンデルカー)
明けの明星
あと、日本の真言密教の開祖・空海の「明けの明星」もそうですね。
空海は若い頃に「虚空蔵菩求問持法」を修行し、その瞑想修行が完成したときに、「明けの明星」が口の中に飛び込んできたといっています。
「明けの明星」は、おそらくニミッタでしょう。
アジナーチャクラの光という説もありますが、マントラを唱えている中で光(ニミッタ)が生じて、禅定に至ったのでしょう。
ちなみに、空海が修行していた「虚空蔵菩求問持法」は、マントラを使った禅定に至る瞑想修行です。
奈良時代に中国僧・道慈が日本に伝えて以来、吉野の比蘇我寺(世尊寺)で盛んに行われていたといいますね。空海は勤操から伝授されたといいます。
イメージで作った光は魔境になりやすい
丹田光にしても、ニミッタにしてもそうです。
空海の「明けの明星」もそうです。
身体の発光現象はあります。
決してオカルトではないんですね。
ちなみに、こうした「光」は、イメージでそれらしいものを想像して生み出すことはできます。
しかし、意念を使った「イメージ光」は、実は、よろしくなくないんですね。
なぜなら、その光は、マインドで作った産物だからです。マインドで作った光は、アストラル次元の現象になりますので、いわゆる「魔境」になります。
後で厄介なことになることも少なくありません。
意志(マインド)の力で発光させるのではなく、長い間、地道に修練していく中で、次第に自然に出来てくるのがよろしくなります。
結局、身体の発光現象には、気、エネルギーが関係していて、その源泉はクンダリニなるのではないかと思います。
梵天という神は身体が光っている
身体が光るということは、実は興味深いことでもあります。
天界の上には梵天(ぼんてん)という神々がいらっしゃいます。梵天は「神々を超えた神々」といわれています。
通常の神々は、人間に近い存在だったりします。
これを「六欲界」という天界の天人(神)になります。意識の高い金星人らもそうですし、どこか人間と同じ所があります。
しかし梵天になりますと、通常の神々(天人)とは異なります。「色界(しきかい)」という天上界の神になります。
色界の梵天は禅定(ジャーナ)といった深い精神統一の状態に入っていて、「四無量心」といった愛に満ちあふれつつ、とても浄らかな心の状態のまま存在しています。
いわゆる「ワンネス」とい言われる世界が、この梵天の世界になります。
統一感、境界の無さ、高揚し、愛に満ちあふれた世界です。
梵天の神々は、身体より光明を放つ「少光天」という神々もいらっしゃいます。
身体が「光」というわけですね。
禅定の世界の梵天は、常に光輝いているわけですね。
ちなみに宇宙と一体となり無我となる「本当のワンネス」を体験すると、いわゆる「悟り」であって、その後の価値観や物の考え方は一変します。
波動が高まり運がよくなると身体から光が出る
実のところ、人間も心が浄まり心が発達していきますと、身体から光が出るようになるといいます。
実際、禅定に到達した人は、身体より高貴な光が出ているといいます。
禅定に入ることができなくても、天人のような波動になったり、生命力がアップしたり、運がよくなって生き生きとしてくると、目には見えない光を発するようになります。
「あの人は輝いている」というのは、決して気のせいではなかったりします。
目に見えないだけで、実際に光を発しています。
五戒で心を浄めると身体は発光する
「身体が光る」という話しになると眉唾のようですが、心を浄めていくと発光することがあります。
心浄めることの第一歩は、仏教的にいえば「五戒」という、シンプルなルールになります。
五戒とは、
・生き物を殺さない、
・与えられていないものを取らない(盗まない)、
・嘘を付かない
・不倫をしない
・酒を飲まない
になります。
慚愧の実践によって身体は光る
また五戒の前提になるのが「慚愧(ざんき)」といいます。これは
・慚(ざん)・・・悪いことは「恥ずかしい」と思う心
・愧(き)・・・・悪いことは「おそろしい」と思う心
この2つからなります。
慚愧の心があれば、人は悪いことをするのが減り、必然的に心が浄まっていくようになります。
慚愧というのは、言葉を変えれば「デリカシー」になります。
細かいところにも気が利き、気配りのできる感性でもあったりします。
身体が光るためには微細な世界に入ること
微細な世界に入っていくためには、
・慚愧の心。
・この延長にある五戒の実践。
・瞑想修行を続けること。
これらによって成し遂げられていくようです。
決して瞑想や気功といった「技術」だけではなく、実に「心を成長させる実践」がポイントであるといいます。
慚愧や五戒といいますと、今の時代の流れに逆行していくかのようでです。
生きづらくなったり、世間を狭めるように感じることもあるかもしれません。
しかし、意志を強く保ち、道を志していきますと、いろいろと得られることが出てくるようです。
ストイックにではなく、お気楽に、ゆるりとしたスタンスで、進んでいくのが良いようです。