やさしさ、思いやり。
本当にこれがわかってきますと、他人に、あんまり無理なことは言えなくなります。態度にも示すことができなくなります。
なぜなら、みんな、どこかしかに課題を持っているからですね。課題の無い人はいません。問題を抱えている人がほとんどです。
またかつて、何らかの問題を抱えていたことがあるはずです。一生が順風満帆に行く人は、極めて少数。
それが人の営みってもんですね。なだのブッダも「こは苦なり」と喝破されたのでしょう。
で、そういった課題にせよ、問題にせよ、結局、誰もが持っていますので、大きな視点から見れば「お互い様」。お互い様なんですね。
批判し、批難し突っつくのではなく、お互い、ゆるし、ゆるしあってゆく。寛容。
しかし、あまりにも酷い場合は、批判や批難も出るでしょう。これは仕方ないでしょう。この辺りの塩梅は、それことハートや徳の感性に基づくものだったりします。
しかし、課題なり問題は、自分で深く理解し、納得して、改善するとか、「あるがまま」として向き合っていくものですね。それでいいんです。
で、大事なのが、やっぱりハートなんです。ハート。
これが軸になってきます。ハートを自らのうちに増大させていくこと。広げていくことですね。
そして、自分自身、周囲の人、過去の記憶などに対して、ゆるし、やさしくし、ほほえみかけていくことですね。
ハートが大きくなっていくと、少々のことはゆるせるようになります。「ま、いいじゃん」って感じですね。
しかし、ハートを欠いた言動を、あんまり看過していますと、本人のためによろしくありません。
そういうときには、核心を突いた頂門の一針の激が飛ぶときもあるかもしれません。
けれども、そういう手厳しい指摘があったとしても、根底には、やさしさ、ハートがあるんですね。
「だから、あんたはダメなんだよ」ではないんですね。「大変だったねえ。ま、がんばろうよ^^」、そんなニュアンスなんです。
やさしいんです。
ええ。
やさしい。
人は、育っていく環境の中で、人間関係の中において、酷い仕打ちを受けたりすると、人間不信に陥ります。これが重なると、ドライで打算的になり、言い争ったりするのが当たり前になってしまいます。
攻撃し合うことに、一体感や喜びを感じてしまうほど。そんなハートの無い関係でも「よし」としてしまうようになってしまいます。
けれども、それは、どこまでも「誤った体験」にもとづいた「見解」です。本来の有り様からはズレています。
「ハート」。
ハートが軸になるんです。
どこまでも。
ハートが基盤になります。
ハートを強くしていく。
増大していく。
広げていく。
これを丹念い続けていくことですね。一朝一夕にできない性質かもしれませんが、しかし何度もいいますように、いろんなことがあっても、続けていくことですね。
ハートの力が優れていくことは、心理学の世界でも言われています。
◎他人の幸福を願うだけで不安が減少して精神状態がよくなると判明
https://gigazine.net/news/20190403-simple-trick-instantly-improve-mood/
ご覧の通り。
性格すら変わっていきます。
ハートの力は絶大です。
自分をゆるし、いたわり、やさしくし、言葉を丁寧にしてゆく。そして、他人や周囲も、ゆるし、いたわりの気持ちを向け、広げていくようにすると、性格も温厚となって、やさしい人柄へと変わっていくようになります。
ええ、かならずそうなります。
が、それでもどうしても苦手な人がいるかもしれません。が、そういう場合は仕方ないですね。こうした好き嫌いを超越するのは、なかなか大変。それならば、自分が出来うる範囲で、ハートを実践していくことです。まずは。
ハートを増やし、広げていきますと、人をうるわし、よろこびに満ちた形成力が身につき、自分も他人もしあわせにしていく感性や力が付いてまいります。
そうそう、ハートが、どうして大切なのか。一つ事例を出しましょう。
悟りの方法もいろいろとありますが、ハートを欠くと、かならずといっていいほど魔道に墜ちます。
こうしたことは起きがちなんです。悟りの世界では、意外とおきがち。中でも智慧を重視する瞑想では起きがちなんです。ハートの無い禅やヴィパッサナ瞑想では起きがちなんです。
ハートが乏しい人や、人を見下す人、性質の重たい人、元々傲慢な性質な人は、とにかく落とし穴に墜ちやすい。例外はありません。厄介な性格なんです。
なので、悟りにしろ、いや悟りでなく普通に生きていくにしろ、ハートが欠かせないんです。欠かせない。大事なエッセンス。
悟りにおいても、ハートは欠かせません。ここさえ押さえておけば安全弁になるくらい。
ハートは大切。ハートさえあれば、人生は幸福になります。人からも好かれるようになります。
慈悲、慈愛は偉大。ゆるすこと、寛大になることも偉大。
ハート、慈悲、慈愛は、ある意味、徳の総合パッケージです。この中には、言葉に関することも当然入ってきます。
・粗野で汚い言葉を語らず、丁寧で気品のある言葉を語る
・人の仲を裂くような陰口を語らず、仲直りさせる調和を育む言葉を語る
・無駄口を控え、場にふさわしく有意義で、心の栄養になる言葉を語る
これはら仏教で言われている「言葉に関するマナー(戒律)」です。これもハート系なんですね。日々、心がけていきますと、かならず習い癖になります。必ず。
ハートは奥深いものがあります。とても大事で、貴重で、軸となるエッセンスです。
今日は雨。咲き誇る桜も、雨で散っていきます。
気圧のせいか、今ひとつな気分。
しかし、桜はまた来年、満開の彩りをほこるものです。美しきかな。
徳の香りもまた、美しきなり。
そう、ハートと徳を高め、広げていくことこそ、本当の美しさだったりします。
ハートと徳がどういうものかを知り、ハートと徳に生き続けていくなら、いずれ大輪の花を咲かせるようになります。
それはブッダが証明もしています。
それにしても、年齢を重ねてくると、それまでの生き様、思い、有り様というのが、一つの「かたち」「形成力」となって出てくるように思います。
人をうるわし、よろこばして生きてきた人の「かたち」と「形成力」。反対に、人をさげすみ、悲しめてきた人の「かたち」と「形成力」。
どちらであっても、日頃の思い、有り様は、時間の経過とともに、「かたち」「形成力」となってきます。
変人。
一般的な有り様からズレた「かたち」「形成力」を持っている人は、良い意味であっても、悪い意味であっても「変人」と呼ばれます。
良い意味では、「奇特な人」。
悪い意味では、「あぶれた人」。
いずれにせよ、一般的ではない人ですね。
で、こうした人は、ある意味、孤独です。理解されることが少ないからですね。
良くも悪くも、どちらにしても苦労しがちです。世間一般の感性や価値とは違うところに興味があったりするからです。また特異な能力を持っていることもしばしば。
苦労が多い分、人の情けや思いやりが、骨身に染みいるというのもあるんじゃないかと思います。