グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称

グノーシス主義とは知識を意味する?

ヨーロッパの精神世界を探索していますと、以前から「グノーシス主義」という言葉をよく見かけていたものです。

キリスト教にそぐわない有り様に対して「グノーシス主義」と言われている印象もあったものです。

実際のところ「グノーシス主義」という言葉(概念)はちょっとわかりにくいんですね。つかみどころが無いところもあります。

グノーシス主義をネットで検索すると「知識・認識」という説明が一般的です。しかしこれは舌足らずな説明なんですね。

グノーシス主義は多種多様

後でくわしく説明しますが、グノーシス主義とは、パウロ教(キリスト教)からの総称であり、蔑称・卑称です。イエス・キリストが絡んだ多種多様な見解や教え、実践に対して十把一絡げにまとめて付けた蔑称になります。

実際のところグノーシス主義はバラエティに富んでいます。たとえば、

  • 多神教的(唯一神を否定)
  • 形而上哲学的
  • 禅定を主体とした瞑想的(ヨーガ的)
  • 観察瞑想的
  • 非観念的、非言語的領域を取り扱う

などなど。
アプローチの仕方は多種多様です。

グノーシス主義の具体例

グノーシス主義はさまざまな教えアプローチがあるようです。で、「トマス福音書」「マグダラのマリアの福音書」のような瞑想を主体としたグノーシス主義についてザックリといいますと、

  • プレーローマ・・・真我、宇宙意識、梵天界(コーザル界)
  • アイオーン・・・真の神、高次の神、梵天(一般的な神を超越する宇宙最高の神)
  • アイオーンの両性具有・・・梵天のこと(梵天は男性でも女性でもない中性的な存在)
  • ヌース・・・知恵・叡智(高次元の知恵・叡智)
  • アカモート・・・下層の知恵・叡智(アストラル界の知性/六欲天界、餓鬼界)
  • ヤルダバオート(デミウルゴス)・・・思い上がった精霊(自分を創造主と思い込むユダヤの神)、四天王界のバランスを崩した天人(原始仏典パーリ長部仏典・第32経「アーターナーティヤ経」「悪いヤッカ」
  • アカモートがヤルダバオートを生み出す・・・天使界、人間界、地獄界(苦しみの世界)

これは瞑想を軸にして整理したグノーシスです。

原始仏教をベースにした分類・言語化になります。このグノーシスはわかりやすいのではないかと思います。また実用的です。

グノーシス主義は、哲学的になりますと観念で作り上げているため現実と乖離する上、複雑怪奇になっていきます。

またグノーシス主義は、原始仏教に比べると、観念的に追求しているのがほとんどであるためか、雑で間違った体系やモデルになっています。

グノーシス主義によるモデル(哲学的アプローチによる観念モデル)はほとんど役に立ちません。

しかしイエスが伝えたというグノーシス主義的なものの中には参考になる教えがあるように思います。

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グノーシス主義とは真理探究のことだった

で、グノーシス主義とは、信仰ではなく知識智慧認識を主体として「真理を探究」することをいっています。具体的にいえば、

  • 自分とは一体何者なのか?
  • 自分はどこから来たのか?
  • どうやって今の自分になったのか?
  • 肉体から逃れるためにどうしたらいいのか?
  • 霊魂の救済はどうすれば実現できるのか?
  • 内在する神性はどうすれば開眼できるのか?
  • 高次の神の世界にはどうすれべ往けるのか?
  • この世や天の世界(天上界)はどうなっているのか?
  • 神の世界はどうなっているのか?

といったように、高次の知識や智慧、認識によって、人間世界を超越した次元へ飛翔したり、知り得ることをいっています。いわば「形而上の探索」「真理探究」、これがグノーシスになります。

この中には、哲学的、瞑想的なアプローチもあって実際は多種多様決して「グノーシス主義」といった一派があるわけではないんですね。

またこのような知識、智慧、認識に当てはまらない信仰とハイブリッドな「グノーシス主義」もあるようです。漠然と「グノーシス主義」とカテゴライズされているのが実際のところっぽいですね。

世界の実相を探究するグノーシス主義もある

また真理探究のほかに、世界の実相を探究・解明するグノーシス主義もあったようです。たとえば、

  • 世界を創造したのは唯一神ではない
  • 天上界には大勢の神聖な存在がいる
  • 天地創造は神の領域で起きた大災害、大失敗の結果
  • イエスは秘密の知識を伝えるために神の世界から来た魂の救済者

こうした見解を抱いていたグループもあったようです。

イエスが真理(秘密の知識)を教えてくれた

あとグノーシスでは「イエスが真理を教えてくださった」と主張しています。なので「我々こそ真のイエスの教えを奉持し実践する者だ」と言っていたと。

で、探究アプローチには、哲学的、瞑想的、信仰的、その他があったようなんですが、真理を知るために「秘密の知識」が必要。

また知り得た真理を言語化したのを「秘密の知識」と言った人達もいたんじゃないかと。

グノーシスには様々なものがあったということですね。十把一絡げに「グノーシス主義」とすることは誤りなこともわかります。

で、パウロ教側では、こういのを十把一絡げにして「グノーシス(グノーシス主義)」と言っていたようなんですね。

2000年前はグノーシス主義が最も多かった

多種多様なグノーシス主義なんですが、2000年前は最も多かったといいます。地中海沿岸にはグノーシス的なイエス信奉集団が非常に多かったといいます。

実際のところは、原始正統派を自称する「原始キリスト教教団」はマイノリティ。しかし勢力的な布教活動によって、奴隷を中心に信奉者を拡大。そうして巨大な勢力になったというのが本当のことですね。

こうしたことは20世紀にヴァルター・バウアーが指摘しています。

しかし正統を自称するキリスト教と侃々諤々の大論争になり、現在も論争中であるといいます。

グノーシス主義とは原始正統派が付けた総称

で、「グノーシス主義」とは、結局、パウロ達が考案したイエス信仰(自称・原始正統派)が付けた総称なわけなんですね。「グノーシス主義」という一派があったわけではありません。

となると「グノーシス主義とは一体何なんだ?」となるわけですね。

ところが聖書を読み、キリスト教の歴史を調べていくと、グノーシス主義とは何なのかがわかります。結論を先にいえば最初に書いたことですね。が、グノーシス主義とはもっと広範囲にわたっています。で、

  • ユダヤ教から外れているもの(預言を信じない、旧約聖書を否定しているもの)
  • 唯一神を掲げてないもの
  • イエスの復活を信じないもの
  • パウロが考案したイエス信仰から大きく外れているもの
  • パウロ教信者が理解できないもの

これら全てに該当するものを総称して「グノーシス(グノーシス主義)」と言っていたことが浮かび上がってきたものです。

で、こうした中に、上記でも説明した(一般的に理解されている)「高次の知識や智慧、認識によって、人間世界を超越した次元へ飛翔したり、知り得ること」としてのグノーシスがあるわけですね。

グノーシス主義とはパウロ達が理解できない教え

グノーシスとは、一言いえば「パウロ教以外の理解し難いもの」これらを総称して「グノーシス主義」といっていたようなんですね。

真理探究は、パウロ達からすれば理解不能。教義を理解して信条とする「イエス信仰(観念的信仰)」とはまったく異なります。意味不明。そこで「グノーシス(知識)」というレッテルを貼ることになったんだと思います。

事実、マルキオン派(パウロ派を精鋭化)、エビオン派(原始エルサレム教団を精鋭化)、モンタノス派(チャネリング集団)などは、パウロ型のイエス信仰に似ていたため理解できたのでしょう。なのでこれらは「グノーシス」とは言わずに、個々に◎◎派と命名していたわけですね。

こうしたことは「マグダラのマリアによる福音書」の著者も同じようなことを言っています。

ぶっちゃけて言えば、グノーシスとは「ヲレ達とは違う、なんかよくわからん話し(知識)を、ごちゃごちゃと言っている連中」ということ。ザックリとした言い方ですけど、これがグノーシス主義と言われている諸々の本質ですね^^;

初代教会のキリスト教信徒はグノーシスを理解できなかった

結局、パウロ教(キリスト教)の信奉者は奴隷や女性、子どもが多かったこともあって、単純な信仰なら理解できても、グノーシスのような高度なことや深遠なことは理解できなかっんだと思います。

「パウロ教」にしてもそうですが、信仰そのものが理屈でこしらえた観念的な思想です。

キリスト教とは、いわば思想です。イエスの死と復活を、旧約聖書に基づいて解釈してメシアに仕立てた理屈であり思想。

で、これを信じることを「信仰」といっています。観念的な信仰なんですね、本質は。思想信条を信じることと本質は同じです。

しかしグノーシスのように言葉、理屈、思想を超越した非言語領域を取り扱う有り様に対して、パウロをはじめとしたキリスト教信奉者は、到底理解できないのもうなずけます。そもそも土俵が違います。

元よりパウロ達は、形而上の哲学的なことや瞑想的なこと、観察的なことは理解できません。観念的な思想信条に基づいたイエス信仰をしているからです。

観念を超えた領域のことはとてもではありませんが理解できるはずがありません。

まして瞑想的なアプローチを取るグノーススは言葉を超越した世界へと進んでいきますので、到底理解できない。

中世のマイスター・エックハルトの深い瞑想が理解できず、異端審問にかけて処刑しようとしたのと同じです。

わけのわからないものをグノーシスとした可能性

非言語領域を取り扱う人達に対して、何言ってるのか、何やっているのかもわからない。

なので、こういうのをひとまとめにして「グノーシス(わけのわからない知識)」と言って、「異端」扱いもするようになったのでしょう。

「グノーシス主義」という一派があったわけではないんですね。「わけのわからないことを言っている連中」をまとめて「グノーシス主義」と言っていたということ。蔑称、卑称に近かったのでしょう。

「グノーシス主義」一つとっても、「自分達の信仰を最高」とみなすキリスト教徒にありがちな傲岸な姿勢が浮かび上がってきます。で、この姿勢がキリスト教を最初から現在まで貫いているのでしょう。

外典に多いグノーシス主義

ところで聖書は、367年にアタナシウスがチョイスしてまとめた文集です。27の文書が正式採用されて、パッケージ化されて「新約聖書」となっています。

ほとんどバラバラの聖典をチョイスして一冊にまとめていますので、文書間の整合性がありません。

そもそも四福音書そのものが、別々の思想や見解からイエスの生涯をまとめています。ここに福音書をほとんど無視した自己の体験と信念に基づいたパウロ教の文書も多数入り込んでいます。

聖書そのものが、実はカオス。5~6種類のイエス信仰文書をまとめた文書集です。で、これが正典となっています。

が、聖書に収録されなかった文書は外典(げてん)といわれています。

外典の中には偽典もあります(イエスは双子だったとかなどなど)。

しかし外典にはグノーシス主義の文書が結構あります。といいますか、イエス信仰とはスタンスが異なるものは全て「外典」扱いされています。

必然的に外典には、グノーシス主義の文書が多くなります。

ヨーガ的なマグダラのマリアによる福音書

有名なのは「マグダラのマリアによる福音書」。2世紀の頃から、その存在は知られていたが発見されていなかった。19世紀後半になってエジプトで偶然見つかったという福音書。

「マグダラのマリアによる福音書」には観察瞑想系のアプローチで心を観察し、最後に怒りや貪りの心が根絶することが、イエスが語っている形で伝承されています。

で、マリアに福音書で説かれるイエスの教えは、まさに仏教的、ヨーガ的です。

罪は無いとイエスはいいます。で、罪は思いへの執着が原因だといいます。で、心を観察し掘り下げて(瞑想的なアプローチ)、怒りや欲望の根を根絶することを、イエスは説いています。

で、グノーシス主義とくくられる教えの中には、このように仏教やヨーガに近いものもあります。

トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕! マグダラのマリア福音書のイエスの教えはヨーガ的

まとめ

グノーシス主義とは、高次の知識や智慧、認識によって人間世界を超越した次元へ飛翔したり、知り得ること、真理を探究することをいっています。

しかし実際は必ずしもそうとは限りません。信仰が混在したものもあるようです。

で、一歩掘り下げると、パウロ教(キリスト教)からみて「自分達の信仰とはまったく違うこと(知識)を言っている人達」「よくわからないこと(知識)を語る人達」を卑称した集合体です。

で、こういうのをひとまとめにして「グノーシス(わけのわからない知識)」と言って異端扱いをしてきたんだと思います。

パウロ教のようなシンプルな信仰集団からしてみれば、グノーシスは理解不能になるのも仕方ないかもしれません。言葉や観念を超越した世界を扱うものもあります。

パウロが考案したイエス信仰にしても、本質は思想信条です。リアルに神を感じているわけではありません。想像や観念でこしらえた神をリアルの神と信じているに過ぎません。これは「観念的な偶像崇拝」ともいえます。

で、「グノーシス主義」といった言い方ではなく、それぞれの思想や実践毎に、新たに名称を付与していくほうが良いのかもしれません。そもそもパウロ教からの蔑視、卑称ですからね。見直しが必要じゃないかと思います。

それにしてもキリスト教を知れば知るほど、新鮮であり、「まさか!」「え!」の連続。他にもビックリな話しはあり話題は尽きません。これからもボチボチ紹介していくかもしれませんね。

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