グノーシス主義はなぜ異端なのか?
グノーシス主義。
いろんな説明がありますが、一言でいえば「真理探究」「本当の自己を探究する」イエスの教えのことですね。
もう少し説明すれば、正統派を自称する教会のような信仰スタイルを取らない「イエスの教え」を掲げる実践グループです。
これらに対して、自称正統派の教会は、総称して「グノーシス主義」と言っています。いわばレッテル貼り、蔑称です。グノーシス主義に関しては、こちらでもくわしく解説しています。
グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称
正統派を自称する教会とは異なるから異端
結局、正統派を自称する教会とは異なるので「異端」認定しているだけですね。
グノーシス主義の中身が正しいとか間違っているとかは関係ありません。単純に、パウロが作ったキリスト教とは異なるから「異端」としているだけです。
自称正統派教会とグノーシス主義との間に何があったのかは、エレーヌ・ペイゲルスの著書を読むとわかります。
簡単にいってしまえば、グノーシス的なグループは、当時ローマなどで隆盛していたため、これに危機感を憶えた自称正統派(パウロ派)が、異端扱いをしということになります。
グノーシス主義は本当に異端なのか?
そんなグノーシス主義なんですが、その中身を見ていきますと、「おやおや?本当に異端なの?」と疑問も出てきます。
グノーシス主義の文献は、1945年にエジプトのナイルで発見されています。ナグ・マハディ文書。
ナグ・ハマディ文書は、2000年の歴史を持つキリスト教をひっくり返すインパクトがあります。
実際にグノーシス主義の文献(マグダラのマリア福音書、トマス福音書)については、こちらで解説しています。
マグダラのマリア福音書のイエスの教えはヨーガ的 トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!
グノーシス主義と正統派教会との比較一覧
で、グノーシス主義と正統派を自称する教会(パウロ派キリスト教)をまとめて比較すると一目瞭然です。
なおグノーシス主義はさまざまです。ここでは「マグダラのマリア福音書」「トマス福音書」「ペトロの黙示録」を元にして比較してみます。
グノーシス主義 マグダラのマリア福音書 トマス福音書 | 正統派教会 新約聖書(ヨハネ福音書) | |
罪(原罪)について | そもそも罪(原罪)はない(執着が生み出す観念) | 十字架のイエスが罪を担ってくれた |
神の国とは? | 自己の中に「神の国」がある | イエスが再臨して地上に神の国を作る |
人の子(メシア)とは? | 自己の中に「人の子(メシア)」がいる | イエスのみが人の子(メシア) |
神の子とは? | 万人が神の子(イエス一人だけが神の子ではない) | イエスだけが神の子 |
メシアは誰? | 万人がメシア(イエス一人だけがメシアではない) | イエスだけがメシア |
奇跡とは? | 奇跡は瞑想(ワンネス・禅定)によって起こせる | 奇跡(しるし)は神の子の証、イエスだけができる |
幻視について | 幻視・ビジョンは知性が絡んだ妄想 | パウロはイエスの姿を幻視して第三の天に引き上げられ、イエスに遭ったといってキリスト教を考案。異言や預言といった妄想を聖霊の働きと称する。 |
欲望や無知について | 欲望と無知を根絶することが大切 | 欲望や無知といった心に無頓着(ペトロは心の汚れすら理解できなかった。マルコ7章18-23) |
永遠の命について | 永遠の命はない(全ての被想像物は解体される) | イエスが再臨すると信仰者は永遠の命を得る |
心の浄化・魂の浄化について | 心の浄化(魂の向上)がテーマ | 心の浄化・魂の浄化にも無頓着(ペトロは心の汚れすら理解できなかった。マルコ7章18-23) |
イエスの死と復活 | イエスの死と復活への言及はそもそもない | 「イエスの死と復活」が一番重要。信仰の要。 |
復活したイエス | そもそもイエスの死体にこだわるのはおかしい | 復活したイエスは天の国で今も不老不死の肉体のまま生きている |
病気について | 病気を求めているから病気になる | 病気は悪霊の仕業 |
福音とは? | 真の自己(真我)を求めることが福音(各人の心を探索せよ) | パウロが考案したイエス信仰が福音 |
ご覧の通りです。
グノーシス主義(マグダラのマリア福音書、トマス福音書、ペトロの黙示録)と、正統派教会・新約聖書とは、真逆です。正反対。本当に180度違います。
真の自己(真我)を探す教えがグノーシス主義
グノーシス主義に伝わるイエスの教えとは、一言でいって「真の自己(真我)を求めよ」ということです。
で、「真の自己(真我)」こそが「神の国」であり、人の子(メシア)であり、これを伝えることが「福音」であるといっています。
整理しますと、イエスが言っていることは、
- 自分を見つめる瞑想的・内観的
- 真の自己(真我)を求めよ
- 魂の上昇と心の浄化によって真の自己(真我)がわかるよになる
- 自己の中に「神の国」「メシア」「真の自己」がある
- 万人が神の子(イエス一人だけが神の子ではない)
- 万人がメシア(イエス一人だけがメシアではない)
- 奇跡は禅定(サマーディ)によって起こせる
こういうことですね。
グノーシス主義のイエスの教えはヨーガ的・仏教的
このよにグノーシス主義とは、まさにヨーガ的なんです。あるいは仏教的。で、イエスはこれらを「福音」といって、伝えることを勧めているんですね。
で、これがグノーシス主義に伝わる教えなんです。
グノーシス主義といわれている「マリア福音書」「トマス福音書」。この両書は瞑想的です。
マグダラのマリア福音書のイエスの教えはヨーガ的 トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!
で、どちらの福音書も「自己を見つめる」といった瞑想的な姿勢に貫かれています。
で、どちらも「イエスの死と復活」に関する言及はまったくありません。「イエスを信仰せよ」ということもない。
といいますか、ペトロの黙示録では仰天するようなことをイエスが語っています。
イエス信仰を否定しているペトロの黙示録
グノーシス文献に「ペトロの黙示録」という真の自己を求めることについて書かれたグノーシス書があります。
「ペトロの黙示録」もナグ・ハマディ文書の一つです。
で、「ペトロの黙示録」でイエスは次のように語っています。
ペトロの黙示録10節
彼ら(正統教会の人達)は死人の名前(イエス)に固執するであろう。それによって彼らは清くなると考える。しかしそれによって彼らはますます汚れるであろう。そして彼らは迷いの中へ、悪しき術策を弄ぶ者(たとえばパウロのような人物)へ、多くの教義(ドグマ)へと陥るであろう。
イエスは「正統」を自称する教会が登場することを予測し、それに対する手厳しい言葉を投げつけています。
「ペトロの黙示録」は2世紀末かそれ以降に書かれ、おそらくイエスを登場させて語らせている文書じゃないかと思います。
この文書で語るイエスの言葉は、パウロや原始エルサレム教団が考案した「イエス信仰」を真正面から否定しています。
否定どころか「心が汚れる」とまで言いはなっています。
こだわりの強い信仰は苦しみ争いを生じる
これは単に信仰を否定しているのではないんですね。
パウロ達の信仰とは、脳内で考えたりイメージする観念や想念にとらわれる・しがみつくことであって、そのような有り様では執着・こだわりが強くなり、他者ととの争いが生じ、結果的に心は汚れ不幸になるからですね。
つまり、清らかなイエス様というイメージを強く抱いて、この思いにこだわればこだわるほど、人は心が汚れ、不自由になり、苦しみの多い人生になります。だから何かを信仰するというスタイルそのものが良くないということなんですね。
このことがピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんが、認知行動療法では定説にもなっています。
観念や思いに執着すれば、必ず苦しみ、不自由になることは、現代の心理学でも明らかにされています。信仰も同じです。
グノーシス主義と正統派教会との対立
それにしても「ペトロの黙示録」の文言を読むと、当時から正統派教会との間で対立や確執があったことがわかります。
戦いと攻撃のキリスト教の性格は、初代教会の時代からあったことがうかがえます。
実は、このことはエレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」にくわしい説明があります。
当時、グノーシス主義はローマをはじめ各地で席巻し、トマス福音書も広まっていたといいます。
これに危機感を憶えたパウロ派では、トマス福音書に対抗するためにヨハネ福音書を創作。ヨハネ福音書を作成することで、グノーシス主義に対抗したといいます。
ヨハネ福音書はグノーシス主義に対抗して創作
事実、ヨハネ福音書では、十二使徒のトマスだけが「疑い深いトマス」など情けない使徒として描かれています。しかも徹底してトマスを貶めています。
ヨハネ福音書にみられるトマスの扱いをみても、ヨハネ福音書が、トマス福音書に対抗して創作した福音書であることは明らかであるといいます。
エレーヌ・ペイゲルスの考察は、その通りでしょう。
ヨハネ福音書は他の共観福音書と異なる
そもそもヨハネ福音書は、他の3つの福音書とも内容も構成も大きく異なります。
イエスの神格化が強調され、イエスを通してしか神の国へ往けない、イエスを盲目的に信じることが正しいなど、カルト性があり盲信を誘う危険な内容もあります。
ちなみにイエスは「私を通してしか神の国には行けない」とは言っていません。
マタイ福音書では、律法を守ることと親切心(隣人愛)の二つがあれば、「誰でも神の国へ往ける」といっています。
イエス・キリストの本当の教えとは?隣人愛?実は律法と親切心or万人が神の子
ヨハネ福音書はドグマが目立つ
ヨハネ福音書がドグマ書であることは、他の福音書を精査すればわかります。
当時のキリスト教指導者のガイウスも「ヨハネ福音書は異端の書」といっていたほどです。正統派教会の中にも異端的とみなしていた人がいました。
ヨハネ福音書は、グノーシス主義(トマス福音書)に対抗するために話しを盛り込みすぎて、オーバーヒート気味になったんじゃないかと思います。
グノーシス主義と正統派教会とは全く異なる
グノーシス主義と正統派教会とは全く異なることがおわかりいただけるかと思います。グノーシス主義は、パウロが作ったキリスト教とはまったく異なります。
また新約聖書に伝わるイエスの教え(律法を守る、親切心)とも異なります(このことはヨハネ福音書も異なる)。
といいますか新約聖書の伝承がもし正しければ、聖書に伝わるイエスの教えは表面的で一般向けのように映ります。
反対に、グノーシス主義といわれるイエスの教えに深遠さを感じます。
グノーシス主義もバラエティがある
ただし「グノーシス主義」といっても、「マリア福音書」「トマス福音書」のように瞑想的ではなく観念的な哲学のような文書もあります。
たとえば、「イエスの知恵」「ヨハネのアポクリュフォン」「エジプト人の福音書」など。これらは瞑想的ではなく、哲学的です。
推測と理詰めで世界の構造を明らかにしようとしているグノーシス主義ですね。で、これら哲学的なグノーシス主義は微妙なものを感じさせます。
哲学的で、思索的なグノーシス主義を異端(異端というか「おかしいんじゃないの}」)とするのはまだしも、瞑想的な「グノーシス主義」を「異端」とするのはどうかなあと。
正統派教会は「悪魔・サタンの教え」とさえも言っているようですが。
もっともパウロ教とは正反対です。なので悪魔・サタン視したくなるのかもしれませんね。しかしグノーシス主義は本当に悪魔・サタンの教えなのでしょうか?
グノーシス主義はなぜ異端なのか?正統派教会とは違いすぎる驚きの内容 グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称
初代教会時代はグノーシス主義が多くあった
瞑想的、真理探究的を軸にしてイエスの教えを伝える「グノーシス主義」も、1~3世紀までは多くあったようです。文書も多くあったとか。
しかし正統派教会がローマ帝国で国教に認定されてから、パウロ派は、自称正統派ではなくなり、ローマ帝国が認定する「正統教会」になります。
で、4世紀以降、グノーシス主義は異端視されて歴史の中で消え去っていったようです。
こうしたことは1934年にヴァルター・バウアーが指摘して以来、現在も議論が続いているといいます。
キリスト教は物語を信じる特異な宗教
仏教やヨーガなどを知っている私としては、瞑想的なグノーシス主義にシンパシーを覚えます。
てか、旧約聖書の預言を「イエスの死と復活」に当てはめて解釈し、それを「信じる」というのは、いわば思想信条を信じるかのようです。一般的な信仰とは異なります。
信仰とはもっとシンプルでいいんじゃないの?
世界の多くの宗教は宗教体験を求める
こちらでも書きましたが(⇒キリスト教は宗教体験ではなく「物語の宗教」)、世界中の宗教の多くは、救済物語を信じることよりも、高次な宗教体験を求めています。
たとえばウパニシャッド、原始仏教、ヨーガなどのインド宗教はすべてそうです。日本の神道はそもそも教えがありません(体験の宗教)。南無阿弥陀仏を唱える浄土宗、南無妙法蓮華経を唱える日蓮宗もすべて宗教体験が軸にあります。
宗教とは宗教体験を軸にしているにも関わらず、キリスト教(アブラハム系の宗教:ユダヤ教、イスラム教)だけは、イエスの救済物語を信じることを「信仰」としている特異な宗教だったりします。本質は思想信条やイデオロギーを信じることと同じです。
が、グノーシス主義は、インドの宗教と同じです。瞑想により「本当の自分を見つける」といった宗教体験に貫かれています。
【キリスト教と他の宗教との比較一覧】
戒律(教え、言語領域の実践) | 瞑想(神との合一、非言語領域の実践) | 悟り・解脱(認識の超越) | |
キリスト教 | ◎ | △(祈り) | × |
グノーシス | ◎ | ◎ | × |
ヨーガ | ◎ | ◎ | × |
仏教 | ◎ | ◎ | ◎ |
この一覧表の通りで、キリスト教は「教え」といった言語領域(解釈)が中心の宗教になります。
まとめ
正統派を自称するキリスト教。そもそも死体が生き返って不老不死の体になって、今も空の上の天国にいて、いつか再臨するという教義はどうしても受け付けません。
瞑想的なグノーシス主義(「マリア福音書」「トマス福音書」)のほうがストンと腑に落ちます。
で、正統を自称する教会のキリスト教は「人間社会・穢土の縮図」だなあと思います。初代教会時代の歴史をみれば、そこには派閥争い、教勢拡大といった現代の新興宗教の様子そのものであることがわかります。まさに「人間の営み」。
キリスト教がわかれば世界がわかる、世の中のことがわかる、人間の歴史の根本がわかるというのは至言であるとつくづく思います。
宗教的な学びよりも、反面教師としての学びがくさんあると思います。
そんなことが明確に浮き上がってくるのが、グノーシス主義と正統派教会との争いの歴史ですね。