グノーシス主義は二元的な世界観を持つ
グノーシス主義はいろいろとあります。グノーシス主義については、こちらでくわしく書きました。
真の道・グノーシス主義が台頭する21世紀 グノーシス主義はなぜ異端なのか?正統派教会とは違いすぎる驚きの内容 グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称
グノーシス主義では、物質、肉体、人間世界を「悪」「劣ったもの」としています。
反対に霊、神、神の世界を「善」「優れたもの」としています。
グノーシス主義は二元的な考えに基づいていますが、
- キリスト教型グノーシス主義
- 非キリスト教型グノーシス主義
- 哲学的グノーシス主義
- 瞑想的グノーシス主義
などなどがあるようです。他にもあるんじゃないかと思います。
仏教の概念を使ったグノーシス主義の説明
で、マリア福音書やトマス福音書は、瞑想的かつキリスト教型グノーシス主義になりますね。このグノーシス主義は、ヨーガや原始仏教にも通じる内容です。
トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕! マグダラのマリア福音書のイエスの教えはヨーガ的
- プレーローマ・・・真我、宇宙意識、梵天界(コーザル界)
- アイオーン・・・真の神、高次の神、梵天(一般的な神を超越する宇宙最高の神)
- アイオーンの両性具有・・・梵天のこと(梵天は男性でも女性でもない中性的な存在)
- ヌース・・・知恵・叡智(高次元の知恵・叡智)
- アカモート・・・下層の知恵・叡智(アストラル界の知性/六欲天界、餓鬼界)
- ヤルダバオート(デミウルゴス)・・・思い上がった精霊(自分を創造主と思い込むユダヤの神)、四天王界のバランスを崩した天人(原始仏典パーリ長部仏典・第32経「アーターナーティヤ経」の「悪いヤッカ」)
- アカモートがヤルダバオートを生み出す・・・天使界、人間界、地獄界
これは原始仏教や瞑想も基づいて整理したグノーシスです。
仏教をベースにした実際の世界を踏まえた分類・言語化になります。このグノーシスはわかりやすいのではないかと思います。
グノーシス主義は、哲学的になりますと、観念で作り上げるようになるため複雑怪奇になっていきます。
またグノーシス主義は、原始仏教に比べると、観念的に追求しているのがほとんどであるためか、雑で間違った体系やモデルになっています。
グノーシス主義によるモデルはほとんど役に立たないと思います。しかしイエスが伝えたというグノーシス主義的なものの中には参考になる教えがあるように思います。
「アイオーン」とは梵天の神
ちなみに「アイオーン」とは、グノーシス主義で遣われている概念です。
「真の神」「高次の霊」を指します。アイオーンは複数存在しているといいます。
で、アイオーンは「プレーローマ」という超永遠世界にいるといいます。また「両性具有」状態であるといいます。
これ、仏教やヨーガで言うところの「梵天」ですね。梵天は男性でも女性でもない中性的な存在といいます。
ここで整理しますと、
- アイオーン(真の神)・・・梵天(一般的な神を超越する宇宙最高の神)
- プレローマ・・・コーザル界(梵天の住む世界)
- アイオーンの両性具有・・・梵天は男性でも女性でもない中性的な存在
ご覧の通り、見事に一致します。
マリア福音書は、真我(梵天)を説くイエスの教えになっています。
トマス福音書に出てくる梵天の神
トマス福音書114節には、次のようにあります。
シモン・ペテロが彼らに言った。マリハム(マリア)はわたしたちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである。イエスは言われた。見よ、私は彼女を天の国へ導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天の国に入るであろうから
「彼女らが自分を男性にするならば天の国に入る」。これまた興味深い記述ですね。
仏教では「梵天」という最高神の世界には「男女の性別は無い」といっています。中性だったか男性しかいないと。
で、梵天とは真我の世界。ワンネスの世界。114節は、こうしたことを示唆する文言です。
至高神「アイオーン」は梵天の神と同一
先述の通りで、グノーシスでは至高神を「アイオーン」といっています。
で、アイオーンは「両性具有」とされています。つまり性別がない。これは仏教が伝える梵天に似ています。梵天は禅定(ワンネス)にあり、光輝いている存在です。
さらにいえば、至高神であるアイオーン複数存在し「プレーローマ」という永遠世界にいるといいます。梵天は超長寿の存在で、それこそ永遠に近い存在。
で、梵天の中には長生きをし過ぎて、永遠不滅の存在であると誤解してしまう梵天もいるといいます。
イエスが言っていることは、グノーシス主義的な表現になっていますが、梵天のこと(禅定、真我、光)になろうかと思います。あらゆることが一致しますからね。
マリア福音書で浮かび上がるペトロ
ところで「マリア福音書」を読んでいると、ペテロの女性蔑視はここにも出てきて、なんだかなあと思いますね。そんなペトロですが「ペトロの黙示録」といったイエスが真我の教えを説く福音書では、対話相手になっています。
結局、新約聖書(福音書)にあるイエスの姿は、イエスを理解できなかったペトロ達の証言と言えそうです。
なのでイエスの超能力とか、目立った語録しか覚えていなかったのでしょう。というかイエスが説く瞑想的なことや高次の教えが理解できなかった。
これを裏付けるのが「マグダラのマリア福音書」。
ここには、マグダラのマリアが最も優れた弟子だったことが解き明かされています。イエスはマリアに非常に深い瞑想的なアドバイスをしています。
しかし、これを聞いたペトロは「自分達には説かれなかった教えだ」と言って、マロアに嫉妬します。
が、実際はペトロにも説かれていたのでしょうが、彼は理解できなかったんでしょうね。彼は、イエスの奇跡とか、大胆な発言しか覚えていなかったのでしょう。しかも新しい国を作るメシアであるとみなしていました。
新約聖書は、このような人達による文書であり、イエスの深遠さを理解できなかった信仰集団による伝聞というのが本当のところなこともわかってきます。
グノーシス主義
グノーシス主義とは一般的に、
- 認識・知恵(これをグノーシスという)
- 自らを「真のキリスト者」と任じ、正統派教会を批判
- 信仰、律法など倫理的行為、教会の権威から解放
- 「信仰」「行為、「教会」(および教会を担う聖職者)に権威を認めない。
と理解されています。
が、これらは表面的な解釈ですね。
グノーシス主義こそイエスの教えが伝承
外典とされている「マリア福音書」や「トマス福音書」には、執着が問題であることや、自らの内面を見つめること(自己観察、内観)、心を浄めることを示唆するイエスの教えが伝承されています。
どちらが本当のイエスの教えなのか。推して知るべしでしょう。
といいますか、パウロ教はイエスの表面的なところ(奇跡、印象的な言葉)だけを見て「信仰対象」にして作った宗教ということですね。
イエスの深遠さが理解できなかったペトロ達の証言を元にしているんじゃないかと思います。
というか、グノーシス的なことを聞いてもサッパリ理解できなかった。深遠なことを言う人達に対して、「よくわからん」「うぜーよ」といって拒絶。
その結果、現代の新興宗教のような「祀りあげてありがたる」簡素な「信仰」スタイルになったんじゃないかと思います。
「マグダラのマリアによる福音書」には観察瞑想系のアプローチで心を観察し、最後に怒りや貪りの心が根絶することが、イエスが語っている形で伝承されています。
で、マリアに福音書で説かれるイエスの教えは、まさに仏教的、ヨーガ的です。
罪は無いとイエスはいいます。で、罪は思いへの執着が原因だといいます。で、心を観察し掘り下げて(瞑想的なアプローチ)、怒りや欲望の根を根絶することを、イエスは説いています。
で、グノーシス主義とくくられる教えの中には、このように仏教やヨーガに近いものもあります。