解脱・悟りの定義~煩悩や苦しみ、迷いから解放されて自由になること
「解脱・悟り」とは、どちらも同じ意味になります。
で、「苦しみや迷いや煩悩から解放されて自由になること」をいいますね。
ザックリいえば「究極的なしあわせ」です。「しあわせ」というと実際は語弊があるようなのですが、苦しみや迷い、煩悩から解放されて自由になることが一番ピッタリだと思います。ちなみに仏教辞典でも、このように説明しています。
悟り・解脱のまとめ
ここで悟り(解脱)についての整理。
悟り(解脱)とは?
- 悟り(解脱)とは「苦しみや迷いから解放されて自由になること」
- 実際に悟った老師も「苦しみがなくなる」「探求するのが終わる(迷いが無くなる)」と言う。
- ナマの事実、実物にある
- 認識に記憶(判断)が自動的に絡む様でなくなる(だから苦しみや迷いが無くなる)
- 悟るためには事実・実物にある。何もしない(そのまま、あるがまま)。
- 認識の煩悩(有身見、疑惑、戒禁取)の根絶が先。その後に貪・瞋・癡の根絶が始まる。
悟り(解脱)ではないもの
- 超能力を発揮できるようになる
- 超人的な人間になる
- 福徳円満な人間になる
- 幸福な人生になる
- 理想的な人格者になる
- 「すべては愛だった~」「私はない」「世界がわたくしだったんだ(I AM)」などの「体験」をする
- 深い瞑想、禅定、サマーディができるようになる
悟り・解脱は間違って考えられている
このように悟り・解脱は定義されています。しかしほとんどが間違って理解されていますね。
「悟り(解脱)ではないもの」にあげたものは、悟り(解脱)ではありません。でも、これらを否定するもナンセンスなんですけどね。素晴らしい美徳や能力です。
しかし眉間から光を出したり、驚異的な福徳を身につけた人格者になるのは悟りではいということですね^^;強いていえばオプションです。
が、これらオプションが悟り(解脱)と思われていますね。たぶん。おそらく99%が間違えていると思います。
新興宗教に多い間違った悟り・解脱観
で、新興宗教に多い間違った悟り・解脱観が多いんですね。
100%間違えています。
あまつさえ霊感商法や犯罪に走っています。最悪。
こうした誤りは、日本では酷いと思います。日本の仏教と、その根幹にある法華経の影響も大きいかもしれません。法華経では「超人ブッダ」として描いていますし。全然違っています^^;
なので悟り(解脱)を正しく理解することは極めて大事なこともわかりますね。正しい理解がないから、あさってな方向に進むことも。ちなみに悟った老師は「正しい理解が欠かせない」と力説します。まずは正しい理解ですね。
誤解が多い解脱観
しかし解脱・悟りというと、
- 雲をつかむようでわけわからない
- 浮き世めいている
- 現実に役に立つの?
- 悟りなんて必要なの?
- 出家しないといけないのでは?
- あれやっちゃいけないなど禁止事項が多いのがつらい
- 欲望を否定しているのでとてもできない
といったように思っている人は、もしかすると多いかもしれません。もしこのような考えを持っているならば全て間違いですね。
日本の誤った仏教が解脱観を歪めている
解脱・悟りに対しては、日本の暗黒仏教の歴史の影響や、小難しい観念や哲学を振りかざして講釈してきた日本の仏教の影響、あるいはとどめの一撃となったオウム真理教事件の影響があって、誤解がはびこっている印象です。
また日本の仏教の根幹にある法華経の影響も大きいでしょうね。法華経では、超人的なブッダ観を打ち出しています。ちなみに法華経は偽経です。
これらの仏教の有り様も全て間違いですしね。
本当は、苦しみや迷い、煩悩から解放されて自由になることですね。
もっとリアルに根ざしています。
本来の解脱観は真っ当
仏教は実際的です。自己観察も実際的です。観念的に行っているならば自己観察になりませんからね。
真我探索もそうです。現実に活かせます。決して浮き世めいていませんし、雲をつかむようなわけのわからない代物でもないんですね。
欲望を否定するとか厳しい戒律を守るもそうです。そのように受け止めている人もいますが、仏典なりを丁寧に読み解いていきますと、そんなことはないことがわかってきます。実にノーマルなことが浮き上がってきます。仏教に対しては随分と誤解がはびこっていると思います。
原始仏教講座の必要性
そんな誤解を晴らすためにも「原始仏教講座」を今年から行っていたりもします^^
もっともシャープな感性や知性は必要になりますので、ここでめげてしまうことが出てくるかもしれません。
また天使とかそういうキラキラスピはありませんので、刺激がないので面白くないと感じる方もいるかもしれませんね。
でも学校の勉強とは違う、地頭といいますか洞察の鋭さとか、そういう頭の良さが必要になりますね^^