今や学校の先生は問題だらけで大変~内外を巡る軋轢の多さと複雑さ
学校の先生は大変です。
特に1990年代半ば以降、教師の苦労や悩みは増加している印象です。実際、文部科学省も公式に見解を述べているほどです。
1.教員を取り巻く社会状況と教員の現状:文部科学省
2.教員をめぐる現状:文部科学省
1 社会構造の急激な変化への対応
2 学校や教員に対する期待の高まり
3 学校教育における課題の複雑・多様化と新たな研究の進展
4 教員に対する信頼の揺らぎ
5 教員の多忙化と同僚性の希薄化
6 退職者の増加に伴う量及び質の確保
時代の変化にともなう軋轢といいましょうか。時代のスピードに、教育現場が追いついていない様子です。
学校の先生は、そうした「現実」と古い体質や考えとの板挟みになって軋轢を感じている様子もいたします。
しかも学校での問題も起きます。
いじめ、自殺、不登校などなど。
実に大変です。
また近年では部活動を巡る悩ましげな問題も起きています。
【ブラック部活をどうするか】”やりたい人だけがやる”とはできないのか?
「ブラック部活顧問」の問題です。
教師の苦労は半端ではありません。世の中の移り変わりのスピードといった変化の影響もありますが、これらに加えて、教諭職としての環境にも問題があります。
こうしたことからのストレスもあるのでしょうが、最近では「モンスター教師」問題も言われ始めています。
要注意! 陰険な“モンスター教師“が増えている?
モンスターは親だけじゃない、「モンスター教師」に要注意!と記事にはありますが、異常な教師は昔もいましたが、今は問題視されやすいのと、教育現場に対応仕切れない教員の苦労もありそうな様子です。
こうした教員の問題も起きてきてますので、法律問題に発展するケースも出てきています。
教育的指導なのか。
はてまた理不尽な仕打ちなのか。
体罰を巡っての法律問題ですね。
あと困ったことに、教師の解雇は容易ではないといいます。その学校の校長であっても、市町村の教育委員会でも、教員を懲戒免職できないといいます。
問題教師を市の教育委員会がクビ(懲戒免職)にできない理由 ? アゴラ
これは意外と知られていない問題です。教師の懲戒解雇は簡単にできないといいます。
なぜなら、校長や市町村の教育委員会に人事権が無いからだといいます。しかも、その市長にも無いと。教員の懲戒解雇ができるのは、基本的に都道府県の教育委員会にあるといいます。
複雑ですね。学校の先生は、
- 時代の変化のスピードに、教育現場が適応しきれない
- いじめ、自殺、不登校、部活問題などが起きても「事なかれ」で隠してしまいたい
- 硬直した組織で融通も利かない
といったストレスの多い環境の中に晒されています。でありながら父兄や生徒からは期待MAXが寄せられる。しかも妙に観念的になった人が多くなっていますので、その観念なり思想、「こうあるべき」だのべき論にはさまれて、心身がすり切れる思いに。
こうした状況ですので、教師の精神病や精神疾患が激増しているのでしょう。一昔前では、教職員の精神病は、あまり聞いたことがありませんでした。平成に入ってから激増していると思います。
学校の先生の知られざる現場の悩み
実際、現場の先生方の話しを聞けば気の毒になります。ホント、大変な苦労を抱えています。
こうしたことは、マスコミはあまり言及しないでしょう。
むしろ学校の先生に対して「べき論」を振りかざして「叩く」「口撃する」といった論調が目立ちます。もっとも教員側に問題がある場合もありますけどね。
しかし教職の現場では、言うに言えない「現場の悩み」があるようです。文部科学省の査察という封建的なチェックもあるといいます。
またマニュアルに従わせる体質。こうしたことは公立の学校で顕著だといいます。
これでは教師の中には、悲鳴を上げてしまう方が出てきても仕方ありませんね。学校の先生は、保護者や生徒に対応しようと思うと同時に、学校側からのルールの押しつけなどがあって、身動きが取れない場合もあるといいます。
真面目な教師は潰れる時代
しかし、こうした状況であっても、いい加減な先生なら軽くスルーするでしょう(笑)あるいは真面目に対応しないで、適当にこなすようにしたり。
ずる賢く立ち回ることができる方なら、のほほーんとやってしまうこともできるでしょう。
実際、こうした姿勢に走る教諭も少なくないとか。で、良い意味でも悪い意味でも「てきとー」にやりますと、「保身」に走ったり、倫理観にもとることをしてしまうようにもなってしまいます。
ですが、真摯に向き合う先生は今の時代は過酷過ぎます。というか、できないでしょう。真面目に教師をやったら自滅してしまいます。
問題の根源的理由は過緊張・神経質さ
やっぱり体制がおかしいですね。それと一言でいって、教師も含めて父兄、生徒も神経質になりすぎです。
もっとおおらかでいいんです。極端なことをいえば、先生にひっぱ叩かれてもいいんです。鼻血出してもいいんですよ。
暴力は基本的にイカンと思いますが、まあそんなに目くじら立てんでもいいでしょう。本当に問題のある教師には、そこれこそ面と向かってガツンと言えばいい。
神経質になって、やたらとギャーギャー騒ぐから、子どももおかしくなる。教師もおかしくなる。
過緊張になっているわけですね。
過緊張。
教師も子どもも。
そして教育のシステムも。
過緊張なんです。
「こうあるべきだ」が正しいと勘違いしている。
徳がわかっていない。
生命本来に開かれていない。
だから全て理念だのアタマだの観念でなんとかしようとしてしまう。こんなことは、やればやるほど地獄になっていきます。
「こうあるべきだ」という理念だけでは人は不幸になる
明治から昭和初期のように、時代がおおらかであるならば、現代の教育システムでも、誤魔化しながら対応もできたんですね。
しかし精妙な感性が絡む時代になると、そうは問屋が卸さなくなります。誤魔化しができなくなる。
理念、「こうあるべきだ」という観念そのものが行き過ぎると、人は不幸にしてしまうということ。
あるがまま・生命本来に開けることが解決の方法になる
で、これとは正反対の「あるがまま」という生命本来に根ざした有り様こそが欠かせなくなるわけです。
人は、思考・観念と、生命本来の有り様・エネルギーの両方があってこそ、いわゆる「健全」になります。
で、この状態で初めて「道徳」というものが、理解を超越して生命感覚でわかるようになります。
善・道徳とは、生命本来に根ざして初めて理解できる代物です。で、これを欠いていることを、感性の鋭敏な人は本能的に察知しているので、「知識偏重はよくない」とか「もっとゆとりを」といったことを提唱もするわけです。
しかし、言語化できるのは、そこまで。その先を言語化できていません。
大事なことは「生命本来の感覚にひらかれること」。
で、この有り様は、
ゆったり
お気楽
あるがまま
自分を見つめる
自分の心(本音・本心)に気づき、言語化していく
奮い立たせても他者の役に立つように努めてみる
といったことを、日頃から行うことですね。これを続けることで、生命本来の感覚が起動し、わかるようになってまいります。
過緊張こそ偏った問題教育の正体
現代の教育は偏りすぎているんですね。だから緊張を強いてしまっているわけです。で、そのこと自体にもわからなくなってしまっている。
苦しい思いだけが感覚として出てくるものの、その根源的原因がわかっていない。そういう教育が、明治時代から続いているわけなんです。
しかし緊張を強いる教育では、必ず行き詰まります。能力も心も伸びません。
断言しますよ。
こんな緊張のガチガチ状態では何も育ちません。てきとーにやっている人だけが、この異常なシステムの中で、なんとかやっていけるだけなんです。
応力は適度にゆるんだ状況でこそ健全に伸びる
人間の能力は緊張した状態では決して伸びません。もし伸びたとしたなら、それは破滅する方向性です。命を削りながらの進展です。
本来、おおらかで笑っている、そんな緩んだ状態でこそ、人の能力は伸びていくものです。
何故、そう言い切れるか?
心を発達させる瞑想やトレーニングをすれば、こうしたことは理屈抜きに体感できるからです。
心や身体は緊張しているとダメです。緩めて、緩めて、しかし体幹はしっかりと支える。
そんな弛緩と緊張のバランスが取れた状態でこそ、人の心は平安に向かい、身体能力も高まっていくのです。
頭だけで理屈をこしらえて、ルールを厳格にしてマニュアル漬けにするものだから、おかしくなっていく。これではアンバランスなんですね。
理屈も大切です。しかし同時に、心を「ゆるめる」ことも大切なんですね。
体を鍛えて筋肉ムキムキにしても、柔軟性が無ければダメなことと同じです。
筋肉ガチガチな体育会系はもっと質が悪くなります。おかしな暴力事件を引き起こします。
「ゆとり」ではなく「ゆるり」が大切
「ゆとり」ではなく、「ゆるり」です。教職者も、生徒の子どもも、どちらも過緊張に陥らせないことが、まず大切だと思いますね。
心身共に。
これは学校だけではありません。全てに当てはまります。
理屈をこしらえることも大切ですが、同時に心と身体をほぐすトレーニングも必要なんです。
このバランスが出てくると、いろいろなメリットが出てきます。
オーラがよくなる。
明るさが出てくる。
元気になる。
あるいはたとえ造作が悪くても美しくなります。
知識と生命本来とが両立しますと、人は必ず健全になり、しあわせにもなってまいります。