ゆるっとラウンジhttps://www.yurubossa.comゆるっとしたお気楽系ブログFri, 21 Mar 2025 15:51:38 +0000jahourly1https://www.yurubossa.com/wp-content/uploads/2019/08/cropped-yuruttologo-32x32.pngゆるっとラウンジhttps://www.yurubossa.com3232 キリスト教がもたらしたマインドと文明https://www.yurubossa.com/kirisutobunmei/https://www.yurubossa.com/kirisutobunmei/#respondFri, 21 Mar 2025 15:13:06 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17475

初期キリスト教(1世紀~2世紀)の歴史を知り、いろいろと感じています。 きっかけは、エレーヌ・ペイゲルスの著書ですね。   posted with ヨメレバ エレーヌ・ペイゲルス/荒井献 Amazon 楽天ブッ ... ]]>

初期キリスト教(1世紀~2世紀)の歴史を知り、いろいろと感じています。

きっかけは、エレーヌ・ペイゲルスの著書ですね。

これを読み、複雑な心境になり、いろんな思いがよぎり続けています。

なんていいますか、さまざまな思いが錯綜しているため、まだまとまらないところがあるんですね。

整理がつくまで、多少時間がかかりそうです。

それくらいインパクトのあることが多く、一種のカルチャーショックといいますか、現在でも価値観、それも深いところで漠然と抱いていた常識のような概念が、ガラガラと崩れ落ちていくような感じが続いています。

もしかすると、私の過去世に、キリスト教(グノーシス)と関わっていた生涯があったのかもしれません。なので、インパクトも大きくなっているのかもしれません。が、さて。

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で、結局のところ、現代の社会は、いわば「初期キリスト教」に端を発しているところがあるってことなんですね。

それは、論理的、合理性、客観的、第三者でも理解できることが大切、基準、常識、統一化、スタンダード、標準化、規律規約といったもろもろ。

こうしたことに端的に表れているということ。

もっとも、これらは社会を運営していく上で欠かせないことばかりです。

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しかし。

この社会の有り様は、イエスの教えが「キリスト教」化していくプロセスにおいて登場してきたことだったということ。

端的にいえば、グノーシスーーー瞑想的であり、高次意識・神意識に開眼し、叡智とともにあることを提唱していた賢者グループーーーを弾圧し、消し去っていく中で、作り上げていった諸々。

一言でいえばキリスト教は、それ自身をグローバル宗教化するプロセスにおいて、「マインド(欲深さ、思考)」を強化していったということ。

で、これが「キリスト教」という宗教となって世界宗教になっていったということ。

で、この一方で、グノーシス---瞑想的、高次意識、真我、神意識---を「理解できん」「そんなものを求めるな!」として足蹴にし、否定し、潰してきたということ。

なんとまあ。

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茫然自失の感に陥るのですが、もし、グノーシスが弾圧されず、世界の主流になっていたなら、、、、

地球文明は、まったく装いを異にした世界になっていたでしょう。

言葉の定義にはうるさくなく、ちょっと曖昧で、ゆるりとしている。

法律のようなガチガチに規定したルールは無いか、あっても簡素なものだったかもしれません。

人々は、神意識(真我)に根ざしている感覚で生きているため、基本的に大丈夫。心配は要らない。

内部から生じる善の感覚に基づき、創造的に生きるようになるため、細々として規定や規律は要りません。

各人の内部感覚にしたがって生きていけば、基本的にOK。無問題。

そんな社会。

そんな社会をもたらしてであろうが、グノーシス。

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この様は「宇宙的」。

そう、他の惑星の皆さんとほぼ同じような有り様であり、地球人も宇宙人的になったであろう、ということ。

しかし、これを阻んだのが、否定したのが、潰してきたのが「キリスト教」。

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現在知られているキリスト教は、誰もが分かるように「普遍化(これをカトリックといいます)」に努めてきたということ。

普遍性が必要なので、定義化・言葉化を行い、誰がみてもわかる行為そのものを---中身・質よりも---重視する。で、組織を重視して巨大な組織を作り上げて普遍化を成し遂げようとする。で、複雑化し、ストレスが多くなる。が、これで善しとする。

しかしこれとは正反対に、厳密な定義化・言葉化することなく、また誰がみてもわかる行為そのものよりも中身・質を大切にする、さらには組織を否定してシンプルなグループで善しとする様。

これがグノーシス。瞑想的。高次意識的な表れだったということ。

けれども、こうしたグノーシスに対して、正統を自称するキリスト教(パウロイズム)は認めることができなかった、いや、そもそも理解できなかった。

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で、そんなグノーシスが不気味に思えたのでしょう、グノーシスに対して潰すための「理論武装」などを始めます。マインド武装です。

その際に登場してきたのが、論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一といった産物。

これらは現代社会にもみられます。といいますか、このように規定しないと許されないのが社会。世の中。

が、これらは、瞑想的、高次意識、グノーシスを潰していく過程で考案され、発展してきたということ!

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これがわかったとき、地球の文明、地球におけるスタンダードというものが、実のところ愚かな感性に基づくだけでなく、高次意識を足蹴にしてくる中で登場してきたということ。

この驚き。

なんとも言いようのないモヤモヤとしたのが渦巻き、と同時に、今まで「常識」と思っていたこれらのことが、ガラガラと崩れ去っていくような感覚に。

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論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一。

果たして、これらはどこまで必要なのか。

もっと内部感覚、直観、感性に従っていいのでは?

常識という一種の概念----それはグノーシスを陶太する中で培われてきたキリスト教的マインド----に必要以上に縛れる必要はないんじゃないの?

極論をいえば、どうでもいいことなのでは?

てか、低い感性、低い波動向け様が、「論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一」といった諸々。

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こうしたことが感じられ、わかってくると、自分の中で何かがガラガラポンしていくのを感じます。

科学への疑問。いえ、正確にいえば、「科学的」ということへの疑問

科学的というのは、誰でもわかる客観的で事実に基づくことをいいますね。また誰もが再現できること。

しかし。その誰でもわかる、再現できるというのは、普遍性、統一、標準化という前提があるからこそなんですね。

で、その普遍性、統一、標準化を求めるのは、畢竟、これががないと困る、不安になるからなんですね。

で、不安は、真我に開けていないからこそ生じてくる迷いでもあって、外側(現象)に振り回されることが多いから抱く感情でもあるわけですね。

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実際、真我的な感性である「あるがまま」「いまここ」にあると、不安は減っていくようになります。完全に無くなることはなくても、軽減します。

わからないと不安になり、不安であるが故に、基準や標準、ガイドライン、普遍性を求め、それを安心材料にするわけですね。真我的な感覚が無いか乏しいからです。

だから、目に見える「安心材料」を求め、それこそが、論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一なわけなんですね。

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こうしたことがわかってくると、現在の文明の根底にある、これらのマインド的感性は、果たして本当にいいのかな?と思えてくるわけですね。

現在の地球文明・社会に対する根源的な疑問と問いです。

こうしたことが、初期キリスト教の歴史を知ることで浮かび上がってきたということなんですね。

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人類の歴史は「強いマインド(欲の深さ、鈍感さ、心への無知、思考の強さ)」がもたらしていることが明々白々になってきたような。

もちろん、マインド的なものもある程度は必要なのかもしれませんが、いや、究極的には不要かもしれない。

論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一。

これらは、真我的な感覚がわからないからこそ必要とされ、低波動がもたらす産物なのではないかと。

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そういえば、秋山眞人さんが別の惑星へ行ったときの話しに、「宇宙人達の社会には、小さな政府と、簡単なルールがあるくらいで、宇宙人達は各人の内部感覚に基づいて生活している」といったことを言っていたんですね。

そう、この内部感覚とは「真我」なんですね。神意識といってもいいでしょう。

こうした真我的な感覚に開け、より深く根ざすようになってくると、マインド的なこと---論理、合理、客観、第三者でも理解できる普遍性、スタンダード、標準化、基準、統一、科学---といったものが色あせてくるような。

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初期キリスト教の歴史を知ることで、社会的なもろもろが、いろんなものが、ガラガラと崩れ落ちていくような感覚になります。

どれだけ恵まれていても、社会的に著名であっても、ポジションにあっても、「ま、そういうもんだよね」「それはよかったね、でも二次的なものだよね」というのが、ますます腑に落ちていくようでもあります。

こうした「側(見た目のもの)」に満足したり、とらわれ、求めることは、「そう大したことではない」といった感じが、ますます深まっていくような感じにもなります。

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一部のスピリチュアルでは、お金持ちになる、豊になる、人生に成功する、願望が実現するとかを強調するところもありますが、ま、そういうのもいいけれども、それよりももっと大切な意識、感性があるよねーといった感が強まるといいますか。

初期キリスト教の時代、グノーシスを陶太し潰していった一方で、マインドを強めていったことは驚きであり、この衝撃は今もなお、自分の中で何かが崩壊し、そうして何かが新しく再構築していくような感があります。

このプロセスというか崩壊はまだまだ続いています。しばらく続くかもしれませんが、地下ではなにかが胎動している感もあって、今、大きな変化の真っ直中にいます。

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キリスト教。

これこそサタン(悪魔)の産物だったことがよくわかります。反キリスト---神意識、真我、高次意識、叡智、愛を体現していたグノーシスを陶太し、消し去ってきたーーーは、キリスト教そのものだったわけですね。

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キリスト教とグノーシス主義の違いを対比させるエレーヌ・ペイゲルス「ナグ・ハマディ写本」は良書https://www.yurubossa.com/naguhamadeli/https://www.yurubossa.com/naguhamadeli/#respondMon, 17 Mar 2025 15:00:30 +0000https://www.yurubossa.com/?p=14537

目次 非表示 エレーヌ・ペイゲルス「ナグ・ハマディ写本」は良書 グノーシスとは真我(本当の自分)に気づく教えと実践のこと キリスト教とグノーシス主義の違い一覧 キリスト教は人間社会の縮図 グノーシス的なあり方で良い 言葉 ... ]]>

エレーヌ・ペイゲルス「ナグ・ハマディ写本」は良書

ここのところ、エレーヌ・ペイゲルスという宗教学者&グノーシス主義研究家の「ナグ・ハマディ写本」という本を読んでいます。

1979年に出版された本で、日本では1996年に翻訳。少し古い本になりますが、非常に学びの多い著書なんですね。

ザックリいえば、「正統を自称するキリスト教」と「グノーシス主義」を対比することで、キリスト教の本質がわかることと、グノーシス主義の特徴がわかるようになっている本なんですね。

で、キリスト教の本質がわかると、現代の文明(欧米の文明の本質)もわかるようになっていて、優れた啓蒙書であり、知見の得られる書だったりします。

グノーシスとは真我(本当の自分)に気づく教えと実践のこと

ちなみにグノーシス主義とは、ザックリわかりやすくいえば、インドの「ヨーガ」のことです。ほぼ同じです。

真我(神意識、誰の心にもある神意識)に気づいて、そこに溶け込みましょうという教えと実践です。仏教から解脱を除いた戒律と瞑想ということもできます。

グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称 グノーシス主義ではアイオーンとは梵天の神のこと

キリスト教とグノーシス主義の違い一覧

で、キリスト教とグノーシス主義を比較すると、次の通りです(スマホは横にワイプしてください)

グノーシス主義キリスト教
理解の仕方言葉の向こうを理解する。
非言語領域への理解
言葉通りに理解する。
文字通り以外の理解はNG
評価の基準行為そのものもさることながら、
その人の動機(善心なのか悪心)を重視
行為を重視。
(洗礼を受けたのか、献金をしたのか
などの行動行為)を重視
組織その人の内面性、霊的成熟度が大切。
真の教会とは霊的成熟を遂げた「人」のこと。
司教などの組織的ポジションは二次的なもの
教会が大事で神の代理機関。
司教は誰であっても神の代理人。
中身よりが大事。
行動様式言語化された基準は二次的なもの。
組織化、統一化、全体主義化には否定的
各人の霊的成熟度を重視。
いたずらにつるまない。時に独りになる。
誰にでもわかる客観的な基準を重視。
組織化、統一化、全体主義に向かう
社会性国家、企業とは馴染みにくい。
社会に適応しにくい人も出てくる。
国家、企業と馴染みやすい。
宗教の装いをした会社組織。
方向性高い精神性、霊性を重視。
お金やモノは幸福となる二次的な要素。
時に物質性を否定。
観念的・抽象的な精神性
世界は神が作った被創造物なので、
肉体、お金、モノは大切。
物質性を否定することは神への冒涜

こういうことなんですね。

非常にわかりやすい。

ちなみに、こちらでは、キリスト教とグノーシス主義との違いを別の切り口から一覧表にしています。

グノーシス主義はなぜ異端なのか?正統派教会とは違いすぎる驚きの内容

ここでは、エレーヌ・ペイゲルスの著書に基づいてまとめました。

キリスト教は人間社会の縮図

結局、正統を自称するキリスト教って、会社組織、人間生活そのものであることがわかります。人間社会の縮図。組織そのもの。

てか、もっといえば、、、、いえ、言うのは控えます^^;

でも、想像がつきますよね?

あまりにもレベルがアレで^^;、なんていいますか。

実際、当時のグノーシス主義の中には、正統を自称するキリスト教に対して、「あいつらはおかしい」と言ってあざ笑っているようなんですね。

確かに、ごもっとも。

現代社会の縮図がキリスト教の本質でもあって、現代の問題はキリスト教にもあるということが浮き上がってきて、なんともため息が出るといいますか、なんていいましょうか。

「キリスト教がわかれば世界がわかる」というのは、こういうことなんだなあ、と改めて感じます。

グノーシス的なあり方で良い

で、エレーヌ・ペイゲルスを著書を読んでいて、私自身が「グノーシス」的なことを自覚しましたね。

で、グノーシス的なあり方で「いいんだ」というのがハッキリしたといいますか、確信が得られましてね。

こうした瞑想的、高次的な意識に取り組む際、社会とどう向き合っていくのかは、多くの方が考え、悩むところだと思います。

私もかつては随分と悩んだものです。が、ずっと前に答えが得られて、その後は惑うことはないんですが、グノーシス文献は、これらの課題に対するヒントや答えを出しているんですね。

で、グノーシス主義で言っていることは、「ホント、その通り」と膝を叩くことが多いですね。

ホント、ごもっとも。

言葉・文字の向こうにある意味をつかもうとするのがグノーシス的

エレーヌ・ペイゲルスの著書を読んでいて、常々私がお話ししていること、考えていること、感じていることがグノーシス的だったことがわかり、ある種の感銘も受けています。

感慨深いんですね。

たとえば、文字化されたものの受け止め方や、思考に関することなんですね。

「考える」「文字で表現する」ということに関しては、21才のときにあった見性体験(覚醒体験)以後、大きな変化があったんですね。

この体験以来、考える、文字で表現するやり方そのものが根底から変わっています。

グノーシスで言っている通りで、まさに「文字の向こう側にある意味をつかもう」とする傾向がいっそう強くなったんですね。

グノーシス的だった自分

実のところ私は、見性体験が起きる前から、10代の頃から、文字の向こう側にある何かをつかもうとする読み方、考え方をしていたんですね。

そういうモノの考え方を、いつの頃からからか覚えていませんが、ずーっとしていましてね。

で、そういう有り様で、自己観察(心を感じる、向き合う、本心本音を洞察する)ということをしていました。

で、こうした中、見性体験が起きたんですが、どうやら子どもの頃からグノーシス的なところがあったことがわかります。

で、これが見性体験を引き起こす下地になっていて、見性体験が起きた後には、「思考」そのものにさらなる変化が起きています。

グノーシスが深まると思考の仕方が変わる

一般的に「考える」となると、どこか混乱した中、なんとか考えをまとめようといった脳内活動になるかもしれません。少なくとも、21才以前の私は、そうでした。

言葉で表現したり、文字で表現する際も、どの言葉を使おうか、選ぼうかと考えながら行うことが多いかもしれません。

ところが最初に直感的なヒラメキのように答えがパっと出て、その直感的な答えに対して、適切なのかどうかをチェックしながら考える、表現するという仕方が出てきましたね。

思考、観念というのが、一つの道具として、ツールとして扱う感覚です。そういうのが21才のときに開けたというのがあります。

グノーシスと見性体験

で、この変化変容は、自分を見つめる、自分を観察するということを延々と続けていく中で起き得ることだったりします。

で、これこそがキリスト教神秘主義でいわれている「暗夜」というプロセスだったりします。つまり瞑想的なことですね。

で、キリスト教神秘主義は、実のところ、グノーシス主義的なことを含んでいる一派だったりするわけです。

なんのことだか意味不明に思われるかもしれませんが、心というのを深く深く見つめていきますと、その先に生命本来の息吹があって、そこにタッチすると、人は大きく開眼する、生まれ変わるようになります。

これが瞑想であり、本当の祈り・善行になってまいります。心を見つめるというのがあってこそ、人は変容していきます。

グノーシスとはヨーガ

エレーヌ・ペイゲルスの書を読んでいて、非常に感銘を受け、感慨深くなったものです。

グノーシス主義は、ザックリいえばインドの「ヨーガ」です。

解脱を抜いた仏教(つまり戒律と瞑想)です。

エレーヌ・ペイゲルスの書を読んで、多くの知見が得られ、洞察がまた深くなりました。

エレーヌ・ペイゲルスって、もしかして一瞥体験をして神意識を感じているのでは?そんなことを感じさせるくらい、ツボっています。的確ですね。

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「中今(なかいま)」は「いまここ」ではない~天皇即位の祝いの言葉https://www.yurubossa.com/nakaima/https://www.yurubossa.com/nakaima/#respondTue, 04 Mar 2025 11:22:22 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17320

目次 非表示 神道の中今(なかいま) 中今(なかいま)とは天皇が即位したときのお祝い 文武天皇と聖武天皇が述べた「中今(なかいま)」 文武天皇が即位の宣命で語った「なかいま」 聖武天皇が即位の宣命で語った「なかいま」 中 ... ]]>

神道の中今(なかいま)

神道に「中今(なかいま)」という言葉があります。

で、どうやら悟り系の「いまここ」とほとんど同じ意味であるようですね。

◎「中今」の検索結果 – Yahoo!検索
https://search.yahoo.co.jp/

ふむふむ。

江戸時代の国学者・本居宣長(もとおり-のりなが)の「古事記伝」にあるとか。

なーるほど。

だが、ちょっと待てよ。
なんか、ひっかかる^^;

そもそも、わたくしは、こうした重要と思われる言葉や観念を見聞すると、そそくさと調べたがる習慣があります。

いつ、誰が、どの文献で述べているのか。

そういうのを、つい調べたくなります。

たとえ、専門家が言っていても「本当かねな?」というひっかかりが出てくることもありますからね。

こうした姿勢は、たとえば仏教の専門家がいい加減なことを言っていたことがあって、それに翻弄された経験があるからなんですね。

また戦後、左翼学者がねじ曲がった左翼史観を言い出していたにも関わらず、それを長いこと信じてしまったり。

それで随分と損をしたことがあるからです。

なので、学者・専門家が言ったことであっても、どこかひっかかるときは、また重要なことは必ず自分で文献をひもといて調べるようにしています。

で、この「中今(なかいま)」もそう。

本当かなあ、と。

中今(なかいま)とは天皇が即位したときのお祝い

で、結論からいえば「中今」は、悟り系の「いまここ」ではないんですね。

「古事記伝」がルーツとありましたが、これも違います。

おっと^^;

「中今」とは、天皇が即位し、位を受け継いだ時のお気持ちとお祝いの言葉です。

で、「中今」は、「続日本紀(しょくにほんぎ)」の「宣明(せんみょう)」に初めて登場する言葉なんですね。

【参考文献】
◎神道辞典(編:国学院大学日本文化研究所)
https://www.amazon.co.jp/dp/433516033X

◎続日本紀宣命(倉野憲司)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4003003810

ちなみに、「続日本紀」とは、「日本書紀」に続く日本の歴史書なんですね。

平安時代に、菅野真道(すがの-のまみち)が編纂したものです。

奈良時代の文武天皇から、平安時代の桓武天皇までの約100年間の歴史を綴っています。

で、「中今」とは、「続日本紀」の「宣命(せんみょう)」で初めて使われた言葉で、なおかつ天皇が即位したときに、高天原から続く先祖代々の皇祖への敬意と、自分が今、皇位を継承したことへのお祝いの言葉なわけですね。

ちなみに、宣命とは、「天皇の命(みこと)を宣(の)べる」という意味です。天皇が即位したときのお気持ちや抱負を述べるということですね。

で、要するに「中今」とは、高天原の頃より、累々と受け継がれている天皇の位を、「今、自分が受け継いだ(天皇の歴史の中の今)」という意味なわけですね。

文武天皇と聖武天皇が述べた「中今(なかいま)」

事実、続日本紀には、皇位を自分が継承した意味で「中今」が使われています。

私が見つけただけでも、一番最初に出てくる
・文武天皇 即位の宣命
・聖武天皇 即位の宣命
に出てきます。

証拠として、その文面を掲載しましょう。

文武天皇が即位の宣命で語った「なかいま」

◎文武天皇 即位の宣命(原文)

◎文武天皇 即位の宣命(現代文)

聖武天皇が即位の宣命で語った「なかいま」

◎聖武天皇 即位の宣命(原文)

中今(なかいま)とは瞑想の「いまここ」の意味ではない

ご覧の通りです。

文武天皇の宣明では、「高天の原に事始めて、遠天皇祖(とおすめらぎ)の御世、中今に至るまでに、・・・」とあります。

聖武天皇の宣明では、ほぼ同じような文章で、「遠皇祖(とおすめらぎ)の御世を始めて、中今に至るまでに、・・・」とあります。

明らかに、歴史ある天皇家の皇位を、自分が(当時の今生天皇)を受け継いだ意味として「中今」が使われています。

悟り系の「いまここ」ではありません。

「今この瞬間を大事にして、今を生きる」という意味ではありません。

「中今」を、悟り系の「今を生きる」「いまここ」とするのは、もっと後世になってから登場した意味でしょう。

後世に付与されたもの。
創作されたもの。

それこそ誰が言い出したわからない、もしかすると昨今流行の悟り系に乗じて、誰かが言い出した言葉なのかもしれませんね。

歴史的事実をねじ曲げてはいけない

困るのは、まるで神道が、仏教やアドヴァイタと同じ「悟りの思想」を、神道が登場した時より持っていたかのように喧伝することです。

これはなりません。
誤解を招く見解を垂れ流しかねません。

「中今」とは、「今ここを生きる(いまここ)」の意味ではありません。

今、天皇家の歴史を継承した意味です。

天皇家のバトンを、今、自分が受け継いだ(中今)ということです。

歴史的な事実をねじ曲げて、あたかも「神道にも仏教と同じ悟り系の修行があるんだ」なんて言ってはなりませんね。

神道事典にも「中今」の意味に対して警鐘を鳴らしている

ちなみに、上記の文献「神道辞典」ページ377でも、「中今の語を、いま現在の時を称える言葉としての意味で、(中略)、神道の歴史観と紛らわしいニュアンスで用いることが行われるようになった」と眉をひそめる書き方をしています。

神道事典では、本来の「天皇の位を受け継いだときのお気持ちの言葉」として使われていた「中今」を、その意味と歴史を改変して使っている風潮にチクリと刺しているわけですね。

ごもっともです。

神道そのものが密教の影響を受けて平安時代に創作された様式

創作といえば、神道もまた、創作されたものです。

現在の様式の神道は、奈良時代から平安時代にかけて、密教の影響を強く受けて創作されています。

このことは、島田裕巳先生の著書にも詳しくあります。

神道は、縄文時代から受け継がれているものではありません。

奈良時代から平安時代にかけて、仏教を元にして創作されたものです。

元々「神道」という概念もありませんでした。

元々は、自然の中に、偉大なる生命か何か(サムシング・グレート)を感じ続けていた慣習のような祀事です。

それは、神籬(ひもろぎ)、 磐座(いわくら)、神奈備(かんなび)といった風習に出ていますね。

素朴な自然信仰だったわけですね。

神道そのものは素晴らしい祀事

しかし原始神道は、決して劣った風習ではありません。

迷信でもありません。

偉大なるサムシンググレートを感じ続ける、豊かな霊性と、高次の感性による素晴らしい風習、それが、元祖神道、原始神道といってよい祀事だったわけですね。

日本が誇る、素晴らしい風習です。

が、これの「ならわし」が、後に、仏教の影響を受けて「神道」というスタイルが作られるようになったということですね。

まとめ

そういうわけでして、神道における「中今」は、悟りとしての「今を生きる」「いまここ」ではないんですね。

「中今」とは、天皇が世継ぎを承り、代々継続している天皇の位を、今自分が引き受けた(中今)という意味が本義なのでしょう。

悟りとしての「いまここ」は、ずっと後になってから改変され変容された意味です。

それこそ、神道は、仏教(特に密教)の影響を受けたことからも明らかなように、禅の思想を取り入れて「中今」としたのかもしれませんね。

で、やっぱり、自分で文献などを調べる必要性を感じますね。大雑把でも、自分で調べる習慣は、持ったほうがいいですね。

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芸能番組が気持ち悪かった子どもの頃https://www.yurubossa.com/geinoujinkimoi/https://www.yurubossa.com/geinoujinkimoi/#respondTue, 25 Feb 2025 13:17:07 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17400

それにしてもテレビを見なくなってから、20年くらいになります。 自宅にはテレビはあるんですが、私は見ないんですね。 チラっと見ることはあっても、何かの番組をずっと見ることはないですね。 思い返せば、小さい頃は、テレビを見 ... ]]>

それにしてもテレビを見なくなってから、20年くらいになります。

自宅にはテレビはあるんですが、私は見ないんですね。

チラっと見ることはあっても、何かの番組をずっと見ることはないですね。

思い返せば、小さい頃は、テレビを見るといっても、アニメ、ヒーローものなどの子ども番組、ドリフくらいでしたからね^^;

で、芸能人とか歌謡曲の番組は、見ていると気持ちが悪くなってきて、そのまま布団にもぐり込んで寝てしまっていましたからね。

そうそう、子どもの頃は、芸能番組を見ると気分が悪くなったものです。

最近、フジテレビ問題が大々的に暴露されてきて、えげつないほどの性接待を繰り返していたこと、また会社ぐるみで破廉恥なことをし続けていたことが明らかになりましたからね。

で、これと関連して、芸能界がエグイほどのエロ業界であることもわかってきて、気持ちの悪い世界なことがハッキリしたものです。

こちらの動画には、17才~23才まで映画女優をしていた方の赤裸々な話しがあります。

【芸能界の闇】中居氏、テレビ業界、スポンサー、性接待どころの騒ぎじゃない件

名が通っている女優や俳優は、性接待することで著名になることを暴露しています。

枕営業が当たり前の世界。

それが芸能界。

こうした話しは噂として今までも聞いていましたが、このように真正面から言われますと、芸能界って性を売る仕事であり、性接待が根底にある業界なことがわかりますね。

私が子どもの頃、芸能番組を見ていると、変な気に当たった感覚になり、気持ち悪くなって寝込んでいたのは、こうした淫靡で卑猥で、ドロドロとした性欲と名誉欲が渦巻く芸能人が発散する波動の影響だったことがわかります。

子ども心に、芸能人が放つ淫靡な空気を感じ取っていたんだなあと思います。

家族が芸能人の話をするときがあるんですが、私は決まって嫌な気分になるもんですから、生返事をしてスルーしてしまいます。

時に「芸能人ってみんな気持ち悪い人だからねー」なんて言って、話の腰を折っているんですが、差別するわけではありませんが、あまりにも欲望がドロドロしている人は、気持ちが悪すぎるため、私はダメなんですよね。

まったくダメ。

芸能人はキモイ人達。

全員が全員、そうとは限らないと思いますが、芸能人はキモイ人達だと思います。

で、そんなキモチ人達が演じるドラマは、キモさ倍増するんですが、何故か、映画はまあまあ見ることができるんですよね。もっとも映画にもよりますが。

 

 

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私がたどってきた不思議なスピリチュアル人生と体験~ブログを書く意義https://www.yurubossa.com/kimyou/https://www.yurubossa.com/kimyou/#respondMon, 17 Feb 2025 14:57:00 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17418

ここのところブログの更新頻度が高めになっています^^ やはり文字で表現しますと、自分の頭の中を精密に整理することができるんですね。 「精密」といっても、トークよりも精密ということですね。 ----- 今ではすっかり、散歩 ... ]]>

ここのところブログの更新頻度が高めになっています^^

やはり文字で表現しますと、自分の頭の中を精密に整理することができるんですね。

「精密」といっても、トークよりも精密ということですね。

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今ではすっかり、散歩しながら瞑想などの話しをして、それをYouTubeにアップすることが多くなっています。

言葉で話すことが多くなっています。

ですが、私の場合、トークはどうしても大雑把になる感じなんですね。

もっともその大雑把さが、むしろわかりやすいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。

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が、私の場合は、ザックリしすぎていて、時々、文字化して精密に表現しないと、どこかモヤモヤとしたのが残るんですね。

なので、こうして記事をタイピングして文字化・文章化することで、頭の中を整理することができて、どこかスッキリもするんですね。

こういうのって、たぶん私の特性・特徴になるんじゃないかと思います。

考えを正確かつ的確にまとめることで落ち着く、スッキリする。

思考をきちんと文章・文字化するのが、私の性分に合っているんじゃないかと思います。

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ところで、世の中には、実にトークがうまい人がいるんですよね。コミュニケーション能力も優れている。

こういう人は、どんどん仲間を増やしていき、いわゆる人脈を容易に作り上げていきます。

こういう人をリアルで見ていると「すげーなー」と思いますね。本当に驚くべき能力です。

そういう才能を生まれながらに持ち得ているんでしょうが、マジモン、素晴らしいんですよね。

で、こうした人が、世に出て活躍もしていくんだと思います。

今、将来、著名になりそうな人をリアルタイムで見ている、そういう人もいます。おそらく伸びていくと思います。

-----

しかし私の場合は、どんどん仲間を増やして人脈を作っていくといった才能やコミュニケーション能力は乏しいですので、地道に活動していくことになりますね^^;

で、これでいいと思います^^

人それぞれ、才能・能力というのがありますからね。

その天分に感謝して、活かすことが大事だと思います。

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と、この辺りでミュージック。

‘Sunset Avenue’ (FAWM#21 2025)

恒例のState Azureさんのアンビエントですね。

いつもいい塩梅です。

-----

で、トーク。

私の場合は、やはり文字にしたためて文章にすることをしていく必要があるなあ、と。

文字化・文章化することで、頭の中の整理もできて、スッキリします。

考えなどを文字にすると整理がつきます。

心の中も整理できます。

思えば、こういうことを18才の頃から行っているんですよね。

-----

自己観察を行っていた10代後半。18才の頃から「書きなれノート」と題して、思うこと感じることを文字にして書き続けることをほぼ毎日行っていたものです。

「書きなれノート」とは、大久保忠利さんという方が提唱していたワークなんですね。

そういえば、昔つづっていたこちらのブログに「書きなれノート」のことを書いていましたね。

大久保忠利さんの「書きなれノート」~思考や感情を言語化・コトバにすることの大切さ
https://yurubosa.hamazo.tv/e7239133.html

自己観察をしていると、いろんなことが去来します。

そうしたさまざまな思いの中で、大切であったり、ひっかかることはノートに書いていって、頭や心の中を整理する。

こういうのを確か、見性体験(一瞥体験)が起きる数ヶ月前まで続けていたんですね。

-----

そういえば、見性体験(一瞥体験)が起きた後、文章の中身がすっかりかわってしまったんですよね。

これは自分でも自覚があったものでした。

物事を俯瞰的、鳥瞰的に、全体的にとらえるようになったものです。

また上手な言語化への関心もよりいっそう高まったものでした。

確か、当時、縁のあった人の影響もあったと思います。

-----

その人は、心の様を上手に言葉化していたんですが、それを聞いて「すごいなー」と思いましてね。

ただ、その方が語る内容は、どこか重たく、深刻だったんですね。なので「こういうのはよくないなー」と感じたものでした。

しかし、さまざまなことを上手に言語化することへの興味がいっそうわいて、おもしろいなーと思ったものでした。

-----

が、心の精妙な領域や、精妙な物事を言葉化する場合、重たくなったり、深刻になるのは、よくないんですね^^

精妙な領域、微細な領域になればなるほど、サットバ(善性)に基づく「いい感じ」が必要になってきます。

ここからズレると、ちょっとマズイんですね。てか、ヤバイ^^;

で、この感覚そのものが、瞑想と同じだったりします。

正確にいえば、瞑想を行う基本姿勢、有り様。自己観察の基本姿勢。

非常に大事なことだったりします。

こうして文字化していると、忘れていた昔のことを思い出すこともあるんですね。

で、これもまた頭の中、心の中、記憶の整理にもなります。

-----

私にとって見性体験(一瞥体験)は、まさに人生を一変する体験だったものです。

しかも、先生や師匠、師家から教わることなく、自分で暗中模索し、試行錯誤を繰り返す中で起きたものでした。

いわゆる「無師独悟」「独覚」というものです。

見性体験(一瞥体験)は、悟りではないんですが、しかし創造主・神・宇宙に開眼する尊い体験なんですね。

そこに、自力で開眼。

自力で、しかも16才から始めて21才で開眼するというのは、もしかすると過去世、前世からずっと行ってきていることなのかもしれません。

よくわかりませんが。

-----

けれども、私の場合、それが見性体験(一瞥体験)であるとわかったのが、体験が起きてから約30年後だったわけですね。

随分と時間がかかったものでした。

しかし、時間がかかったお陰で、この体験にありがちな「慢心」によるリスクや闇落ちしなかったのは幸いだったものです。

仕事で苦労をしたり、人生が思うようにいかなと思うこともあって、おごり高ぶる環境でなかったことも幸いしたと思います^^;

もっとも、内心「いい気になると危ういぞ」というシグナルがあったことは確かなんですね。

-----

体験が起きて約20年後にテーラワーダ仏教にシフトしたんですが、シフトしてしばらくすると、突然、エネルギーの覚醒体験が起きましてね。

またエネルギー的にはっきりと天とつながる体験が起きたりもしたものでした。

しかし、テーラワーダ仏教の文脈には、チャクラやエネルギーの概念がありませんし、まして宇宙とつながる・溶け込むというのもありません。

なので、「一体これは何なんだ?」と戸惑い、そうしてこれまた独りで模索することになったものです。

そうして、アドヴァイタやノンデュアリティーの世界を探索している中で、「一瞥体験」「見性体験」というのを知って、自分が体験したことと同じだったり、非常によく似た体験をしている方々がたくさんいることを知ったものでした。

で、ここからさらに体験が深まるようになって、さまざまなことがわかってきたものでした。

-----

結局、見性体験(一瞥体験)は悟りではないということ。

しかし宇宙に開眼し、宇宙意識(真我)に開け、神の愛(慈悲)を感得する貴重かつ尊い体験であること。

また本質は、エネルギー体験。

しかも、見性体験(一瞥体験)はスタートであって、ここから「それ」に溶け込む、一体化して深めていく必要があること。

そのプロセスにおいては、奉仕(利他)、慈悲が欠かせないこと。

また「あるがまま」「いまここ」というあり方が、深めていく上で欠かせないこと。

こうしたことも体験・経験をしながら感得していったものでした。

やがて日常的に広がる意識(宇宙意識)が定着し、心の成分も変容し、エネルギーが発動するようになって、エネルギー系のワークもできるようになっていく。

イエス・キリスト、ヨーギー達の能力は、「それ」に深く溶け込むことで生じる能力であったこと、精神性であったことがわかります。

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で、こうしたことは洋の東西でも言われています。

インドのヨーガやウパニシャッドでは「梵我一如」。

仏教では「善(善性)」。

タオでは「一(いち)」。

キリスト教では「父に溶け込む」「合一」。

これらは全部、同じことを言っています。

で、現在、覚者といわれている人は、全員、これらの有り様を語っています。

体験や感得に深い浅いがあるため、その話しの内容に違いがありますが、しかし本質は全員同じです。

真我(宇宙、宇宙意識)ということですね。

-----

しかしブッダが説いた「悟り」は、これらとはまったく性質が違います。

だからブッダは、あれほどまでに「涅槃の独自性」を強調されたんですね。

悟りとは、認識のあり方が変わること。記憶が絡まない認識がわかること。

真我体験、見性体験、一瞥体験は意識が変容すること。

悟りと、これらとはまったく異なります。

-----

こうしたことが、求道を始めて40年近く経ってからわかってきたものです。

私の歩みは、これからも続くと思います。

16才のときに、インドの輪廻転生を知った時に、ものすごい衝撃ーーーそれは体に電流が走って、何かの箱の扉が開くかのような感覚があったのですがーーー「自分は解脱するために生まれてきたんだ!」と強烈な衝動がわき起こり、爾来、ずっと歩み続けています。

もっと遡れば、子どもの頃から創造主・サムシング・グレートを、木々や草といった自然の中に感じていましたからね。

小学三年生のときは、野原を眺めていたところ、偉大なる存在を感じて感激し、「自然は友達!」なんて感じていましたからね。

センス・オブ・ワンダーを地で行っていた子ども時代です。

スピリチュアリティ(霊性)の天分があったと思います。

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けれども、こういう人は世間では浮いてしまったり、変人といいますか、奇人の類になると思うんですが、しかしながら理解や賛同してくださる方々がいることは、本当にありがたく、うれしく感じます。

必要としている方には、惜しみなくアドバイスをしたり、サポートをしていきたい。

そういう衝動といいますか、モチベーションもあるんですね。

やはり長い間、誰にも言うことが無かったたったというのもあると思います。

昔は、そもそも理解していただける人がいなかったものです。

宇宙意識やら神の愛だとか、エネルギーが覚醒したといっても、一般的には理解されませんからね。

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近所のお隣さんと話しをするときは、ごくふつーの一般人ですし、どこかの集まりやコミュニティに顔を出せば、ふつーの一般人と同じです。

こうした場で、覚醒やらエネルギーの話はできませんし、話しをすれば「は?」「大丈夫?」と思われますし、そもそも場違い過ぎます^^;マナー違反ですからね。

また、「自分を特別視」するような考えを、無意識のうちに醸成することは危うい。

この道は、落とし穴や危ういところもあって、まるで白刃の上を歩いているところもあるんですね。

充分に気をつける必要があります。

-----

なので、こうしたブログで、あまり話しをするのも本当はなんなんですが^^;、しかし、ブログで、少しずつ、ちょっとずつ書き始めていく中で、理解者や賛同者が出てきたことも事実なんですね。

なので、こうした体験をお話しをするのも、タイミングとか雰囲気とか、そのときのフィーリングというのもありますね。

が、慎重にしていく必要があるかなあと、今でも感じています。

-----

それにしても、こうして気の赴くままに書いていますが、やはり頭の中や心の中すスッキリしますね。

もしかすると、今日書いていることを、きちんと文字化、文章化したかったのかもしれません。

今まで歩んできたこと、たどってきたことーーーその中には黒歴史もあるんですがーーーを言うことで、役に立つ、学びになる方もいるのではないかと。

この界隈における誤解や混乱に、一筋の光を提供して、真我体験や覚醒体験、チャクラ覚醒などに関して、もっとクリヤーにすることができるんじゃないかと感じるものがあります。

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しかし、なかなか勇気が要ることなんですね。また覚悟も必要になりそうな。

あいやー、そういうのは面倒アルヨ、と思うところもあって、結局、お気楽路線になっているんですが、いろいろと思うところ、感じるものがあります。

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けれども、ご縁のある方々が、しあわせな意識や認知になり、高次意識に開眼していく、そういったお手伝い、サポートはしていきたいと思っています。

やはり、人が根本的なところからしあわせになり、高い意識に開けていくことはうれしいですし、楽しいんですね。

充実感をおぼえます。

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と、こんな感じで気のおもむくままにタイピングをしていますが、気が付くと5000文字以上!

ま、これが文字化、文章化の醍醐味であって、私は、こうした文字化、文章化することでスッキリする、整うところがあるかなあと思います。

昔のことは、いろいろと忘れてしまったこともありますが、こうして文字化していると、思い出すこともあります。

ブログを書くのは、やはりいいですね(^o^)

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瞑想をして良くなる人の特徴https://www.yurubossa.com/meisouyokunaru/https://www.yurubossa.com/meisouyokunaru/#respondSat, 15 Feb 2025 13:36:57 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17402

目次 非表示 人が良くなる4つの瞑想実践 4つの瞑想実践をして良くなる人 エネルギー的にきよらかで美しくなる 大切なことは意欲+継続 日々の瞑想は基本 瞑想のやり方はいくつかある 意欲的に行えば効果が出てくる 人が良くな ... ]]>

人が良くなる4つの瞑想実践

瞑想を行って、良くなる・良い変化が起きる人が、一定数います。

この手のことへの研究は長年行っています。

で、瞑想を行って良くなるためには、

  • 言動を適切にする・・・認知を良くする
  • いまここ系の瞑想を行う・・・無意識を浄化する
  • 祈り・ハート瞑想を行う・・・無意識を浄化し愛に満たす
  • 天啓気療を受け続ける・・・無意識の深い領域を浄化する

この4つがおすすめになります。

伝統的な瞑想実践は、戒律(言動を適切にする)と瞑想の2本建てになっています。

このやり方は、仏教が典型です。

しかし、このやり方は、現代では効果が弱いんですね。

現代では、

祈り+天啓気療

を加える必要があります。

で、実際、これら4つの実践を行うことで、4~5年で大きく変わる人も出てきています。

4つの瞑想実践をして良くなる人

で、これら4つの実践をコツコツと続けていきますと、本当に変わります。中には激変した人もいます。

オーラといいますか、気・エネルギーが良くなって、輝きを増すようになります。

で、実際、その本人に聞いてみると、「あるがまま」に物事を受け止めることができるようになっていることがわかります。

心の観察も行い、心のあり方に関心を持っていることもわかります。

しっかりと瞑想効果が出ています。

4つの実践は、自分の経験体験からもおすすめしています。

エネルギー的にきよらかで美しくなる

それにしてもビックリでもあるんですね。

まさか数年で効果が出てくるとは。

気エネルギーの状態がすっかり変わってしまったことは驚きに値します。

霊的な不浄や変なよどみもありません。

スッキリしている。

そのスッキリとしたエネルギーは、そのままその人の内面性を表しています。

もっとも、まだ認知のあり方にいくつも課題があります。

認知、理解、学びは、まだまだ。

これからですね。

ようやくスタートラインに立ったというのが、本当のところかもしれません。

しかしながら、エネルギー的に綺麗になったことは特筆です。

伝統的な方法では、ここまでの浄化は難しいんですね。

はい。困難です。一変的にいえば不可能です。

で、これが伝統的な方法の現実であり、限界なんですね。

やはり「天啓気療などのヒーリング」、「祈り」を加えないと、美しさを感じさせるエネルギーにはならないんですね。

殊に伝統的な仏教の方法だけでは(テーラワーダ仏教であっても)、ここまでの浄化は不可能です。

大切なことは意欲+継続

おすすめしている4つの実践によって成果を出している方、効果を感じている方は少なからずいらっしゃいます。

これが私にとって、確信にもなります。

またなんといってもうれしいんですね。

で、4つの実践で大切なことは、

「意欲」です。

「継続」です。

意欲的に続けていくことが大切なんですね。

瞑想は毎日行うのがデフォルトですね。

できるだけ毎日行う。

できれば20分。

理想をいえば、30分、1時間。

毎日行うといっても、形だけやってもあまり効果は期待できません。

意欲的に行うことが大切なんですね。

意欲的に。

日々の瞑想は基本

で、瞑想は基本なんですね。

瞑想をしないと、よい変化は起きません。

はい。

瞑想をしないと、変容は起きません。

いたずらに時間が過ぎていくだけです。

また祈りも大切。

瞑想と祈り。

これによって、無意識の浄化も始まって、さまざまな感覚もわかるようになってきます。

瞑想がもたらす効果や恩恵は数多く、こればっかりは日々、瞑想しないとまったくわからないんですね。

瞑想のやり方はいくつかある

なお瞑想といっても、瞑想は座って行うだけが瞑想ではありません。

歩く瞑想もあります。

また瞑想でもっとも大切な「心の観察」「自己観察」もあります。

畢竟、自己観察だけでプレゼンス(名色分離智)に達します。

それくらい大事なんですが、いきなり自己観察は難しいこともあります。

ですので座って行う瞑想や、歩く瞑想なんですね。

意欲的に行えば効果が出てくる

4つの実践は、原始仏教をはじめとして、世界中の宗教のエッセンスをまとめて、換骨奪胎して、わかりやすくまとめたものになります。

現代向けにアレンジしています。

意欲的に取り組めば、必ず効果があります。

瞑想は感受力が大事になりますが、瞑想を続けることで感受力も育ってきます。

結局、瞑想をずっと続けていくことが何をおいても大事になるんですね。

1年、2年、3年・・・と続けていく中で、さまざまな気づき(自覚)も得られます。

実践の中で感得した諸々は、誰かから聞いた話しや、本で読んだ知識と違って、腹オチし、叡智となります。

実践、実習。

いまここ。

呼吸に気づく、足の裏の感覚に気づく、手が止まったところに気づく、全身の感覚に気づく、腕が動くことに気づく、お腹の動きに気づく。

うまずたゆまず続けていくことですね。

そうすれば、ふっと気づいたときに、自分が大きく変わっていることに気がついて、心の底から喜び---それは生命のよろこび---法悦---を感じるようになります。

心が善くなり、そうして高次意識へ開眼していく方々のサポートをしていきたい。

それが私の願いでもあり、ずっとこうしたことをしていますが、成果を出す人が出てきますと、ますます意欲的になりますね(^o^)

しかし、ご自身が、意欲的に取り組みませんと、のれんに腕押し。猫に小判。豚に真珠。馬の耳に念仏です。

ぜひぜひ意欲的に続けていただきたいですね。

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よさげなスピリチュアルを体験~天人の欲望こそいわゆるスピリチュアルhttps://www.yurubossa.com/yosagesupi/https://www.yurubossa.com/yosagesupi/#respondWed, 12 Feb 2025 12:35:08 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17394

目次 非表示 瞑想・祈り・適切な認知は基本 よさげなスピリチュアルを体験 モヤモヤが残る謎 天人の欲望 天人の欲望と高次意識は異なる 天人の欲望のワナ 天人の欲望の心地よさ 天人の欲望こそいわゆるスピリチュアル 体験に勝 ... ]]>

瞑想・祈り・適切な認知は基本

それにしても、やはり「瞑想」「祈り」「適切な認知(認知をよくする実践)」といったのはいいですね。

「瞑想」をしますと、意識が明瞭になり、エネルギーに満ちあふれ、トータル的によさげになります。

「祈り」をしますと、心が洗われるようにもなります。そうしてハートにあふれます。

「適切な認知」に注意していますと、意識が明瞭になり、快活になってきます。

「瞑想」「祈り」「適切な認知」は、2000年、2500年前からある実践です。

昔からありますが、王道の実践であり、キモですね。

これらは、人を高次の意識(真我、創造主、宇宙意識)に向かわせ、本当の意味での幸福と叡智に誘います。

よさげなスピリチュアルを体験

昨年から、よさげなスピリチュアルにも触れるようにしています。

何事も「実際に体験してみる」ということをモットーにしていますので、よさげなスピリチュアルも実地体験しています。

ところが、よさげなスピリチュアル、良質なスピリチュアル、エネルギー的なテクニックがすぐれたスピリチュアルであっても、どこかモヤモヤしたのが残るんですね。

モヤモヤが残る謎

終わった後、どこかモヤモヤとしたのが残る。

なにかモワーっとしたのが残る。

これって一体何なんなのだろうか?といった疑問があったんですね。

が、どうやら高次意識には向かわず、「欲望の領域」にとどまっているからなんだということが、わかってきたものです。

天人の欲望

「欲望」といっても、「天人の欲望」のようなものなんですね。

「天人の欲望」。

天人といえども、欲望があります。これは洗練された欲望なんですね。上層アストラル界における欲望。ほとんど害はないんですね。

天人の欲望と高次意識は異なる

が、しかし「天人の欲望」と「高次意識」は性質が異なるんですね。

なので、天人の欲望に触れていると、だんだんと疲れてくるようになります。どこかシャキーンとした高揚感がない。

天人の欲望は、どこかスピリチュアルや新興宗教団体のノリに似たところがあります。奇妙に酔うような心地よさがあります。

これが天人の欲望の特徴。

上層アストラル界における欲望の感覚。

天人の欲望のワナ

天人の欲望は、パっと見た目には心地よい。

しかし、しばらく味わっていると、おや?と。

良質なスピリチュアルといえども、高次意識に向かう要素が無いと、軸に置いていないと、どうしても天人クラスのとどまりがち。

で、天人の欲望に馴染んでしまう。

こうしたことがわかってきたものです。

天人の欲望の心地よさ

人によっては、天人の欲望に心地よさを感じる方もいるかもしれません。

で、これがスピリチュアルの落とし穴の一つなんだろうなあと思うところがあります。

また、これがスピリチュアルへの違和感の一つなのかもしれません。

天人の欲望こそいわゆるスピリチュアル

天人が放つ雰囲気の良さはいいもんです。

しかし、天人の欲望には注意。

天人の欲望が、いわゆるスピリチュアル的なものを醸し出しているのではないかと。

体験に勝るものはない

いろいろと実地に体験しますと、「瞑想」「祈り」「適切な言動」といった基本的な有り様が望ましいということがわかってきます。

やはり何事も体験ですね。

実際に試してみてわかることが多いですね。

黒歴史であろうと、ホワイトな歴史であろうと、体験から学ぶことは多いですね。

学び、体験し、検証する。

これは何事においても大切だなあと、改めて思います。

 

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4つの実践で善くなることを実証https://www.yurubossa.com/4tunojissen/https://www.yurubossa.com/4tunojissen/#respondTue, 11 Feb 2025 13:47:34 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17267

それにしても良い季節ですね-。 1月~2月は、もっとも心地よい季節なんですね。 タマりません^^   で、おすすめしている4つの実践(①いまここ系瞑想、②祈り、③日々の言動を適切にする、④天啓気療やセッションを ... ]]>

それにしても良い季節ですね-。

1月~2月は、もっとも心地よい季節なんですね。

タマりません^^
 

で、おすすめしている4つの実践(①いまここ系瞑想、②祈り、③日々の言動を適切にする、④天啓気療やセッションを受ける)を行っていますと、良くなっていきます。またプレゼンスにも開眼していくようになります。

劇的に変化する人もいて、この実践の効果のすごさを改めて感じています。

劇的に変化する場合は、こう言ってはナンですが、実践を始めた頃が結構大変で、状態が悪い場合ですね。
 

けれども、天啓気療などを受け続けて、毎日、瞑想を行い、また認知をよくすること(日々の言動を適切にする)を行い、良い教え学び続けて身につけようとしていますと、必ずといっていいほど効果が出てきて、数年後には変わります。

熱心に行えば4年くらいで変わります。中には激変します。
 

大事なことは「意欲」ですね。

中でも瞑想を毎日行うこと。できるだけ長い時間ですね。

瞑想も、座って行う瞑想が、瞑想ではないんですね。日常の生活の中でもできます。また心を観察し続けることも瞑想です。

心を観察する瞑想は、プレゼンスや見性(一瞥体験)を引き起こす大切な実践にもなります。

いずれにせよ、瞑想を行うことは必須ですね。
 

ちなみに「意欲」といっても、形だけをなぞって行ったり、真剣味がありませんと、あまり意味をなさなくなります。

力むことなく、ゆったりとして、ゆるっと毎日、意欲的に行うことが大切なんですよね。
 

で、天啓気療などを受け続けながら瞑想を行っていますと、本当に変わります。

顔の色艶もすっかり変わって、オーラも綺麗になって、パっと見た感じがいい感じになるんですね。男性だったら清々しい印象になったり、女性だったら綺麗な感じを与えるようになります。
 

これら4つの実践は、本当に人間を根本的なところから変えます。

こうしたことは、理屈や机上の空論ではないんですね。

実際に効果があり、実証もされてきています。

「伝統だからよい」といった形式的なものでもないんですね。

実際に効果があることをわかりやすくまとめているのが、4つの実践なんですね。
 

実証する方が一人、また一人と増えてくることで、確信も高まります。

幸せになる人、エネルギー的に美しくなる人、高次意識に開眼していく人、こうした方々がもっと出てくるように、ますますサポートする意欲も高まりますね(^o^)

人が幸せになるって、ホント、めっちゃうれしいですし、楽しいんですね(^o^)

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ホリエモンと長谷川豊氏の対談がすごい~しかし着地点はテレビ局のグローバル化の流れ?https://www.yurubossa.com/hasegawayutakataidan/https://www.yurubossa.com/hasegawayutakataidan/#respondFri, 07 Feb 2025 15:14:27 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17382

目次 非表示 ホリエモンと長谷川豊氏の対談がすごい フジテレビは再起不能の「不治テレビ」だが潰れない? コンプラ違反が企業風土のフジテレビ 天人の悲劇 ホリエモンが社長になるプランに潜むリスク ホリエモンのカジノ計画 フ ... ]]>

ホリエモンと長谷川豊氏の対談がすごい

今話題のホリエモンと長谷川豊さんとの対談。

フジテレビ元アナウンサーの長谷川豊さんのトークは破壊力がありますね(笑)

もう長谷川さんが登場しているこちらの3本の動画で充分。この3本で、フジテレビを巡る騒動がわかりますね。

【緊急対談】「フジテレビに上納文化はあります」日枝久が作った“歪な構造”を元フジアナウンサー・長谷川豊が猛烈批判
https://www.youtube.com/watch?v=V7xXAJ7upeQ

長谷川豊/日枝久が作ったフジ/女子アナ上納の実態/中居騒動でスポンサー降板も潰れない訳
https://www.youtube.com/watch?v=Ub3a6HE88y4

【緊急対談】長谷川豊さんに、ホリエモン対談の続編と過去の炎上について聞いてきました
https://www.youtube.com/watch?v=TnTNkDSYKMU

フジテレビは再起不能の「不治テレビ」だが潰れない?

それにしてもフジテレビは、まさに不治テレビになっていますね^^;

再起不能でしょう、このままでは。

しかしフジテレビは潰れることはないでしょう。

その理由は3つ。

一つは、電波利権にあずかっている数少ない企業だから。

もう一つは、総務省の天下り先だから。総務省は決して潰しませんからね。

3番目は、フジテレビの母体となっているフジサンケイグループの本業は不動産だから。不動産事業でフジテレビの赤字はしばらくの間はカバーできるとか。

これら3つの理由で、フジテレビは決して潰れることはないですね。

コンプラ違反が企業風土のフジテレビ

しかし、こうした特権というか安泰な環境にあぐらをかいて、コンプライアンス違反が常態化していたといいますからね。

セクハラが当たり前の会社。乱痴気騒ぎが過ぎていて、もう全員が「兄弟」であると、長谷川さんは語っています。

おぞましい・・・

で、このフジテレビの社風やノリに合わないと「ノリが悪い」「フジの社員らしくない」といってつまはじきにされ、いじめられ、追い出されてしまうと。

もうアホかと^^;

クレイジー

天人の悲劇

フジテレビの愚行を見ていますと、調子に乗った天人の転落人生かのようですね。

天人の中には、その幸運に乗じて好き勝手なことをしてしまい、死後、ガキとかの不遇な境遇になってしまうというケースもあるといいます。

おごり高ぶれば、末路は悲惨。

フジテレビは、企業体そのものが、天界から真っ逆さまに魔界に落ちた企業でしょう。

こういう企業は、社内人事だけで再生は無理ですね。

外部から人を入れて、役員を刷新しないと無理でしょう。

JALや日産と同じです。

てか、フジテレビの場合は、社風、企業風土がクレイジーですので、まともな改革は不可能です。狂った感覚で再建しますので、やればやるほどおかしくなってしまいます。

なので、フジテレビの社風とはまった異なる外部の人達を多く招いて、上層部をすべて刷新し、ゼロから作り直すようにしませんと、再建はできないでしょう。

それくらおフジテレビは「病んでいる」わけですね。人間としての感性が根本的なところから狂ってしまっていて、畜生のようになっています。正常な感覚で会社経営することは不可能なんですね。

ホリエモンが社長になるプランに潜むリスク

で、実際、外部から役員、取締役を招いて、フジテレビを再生する話しもあるんですよね。

たとえばフジの大株主であるアメリカのダルトンが、取締役にホリエモンこと堀江貴文にするプランを提示しているとか。

しかし、ホリエモン。

彼は、竹中平蔵氏とも昵懇なんですよね。

で、その竹中H蔵氏は、ウォール街の日本窓口であるとか。このことは亡くなった安倍元首相が、三橋貴明さんに語っています。

その竹中H蔵氏と、ホリエモンは昵懇。

で、アメリカのウォール街と関係?もありそうなダルトンが提示する「フジテレビ再生プラン」に、ホリエモン取締役の計画があるとか。

ホリエモンのカジノ計画

で、ホリエモンは、長谷川豊さんとの対談動画の最後で、お台場の近くに「カジノ」を作ることを提案しているんですよね。

https://youtu.be/V7xXAJ7upeQ?t=2966

カジノといえば、外資に門戸を開く売国プラン。

このことは三橋貴明さんとはじめ、藤井聡さんら多くの識者が警鐘を鳴らしています。

反日、売国につながる「カジノ」を、ホリエモンは、フジテレビ再生プランの一つに掲げています。

フジテレビ騒動から売国グローバル化へ流れ?

もしダルトンのプラン通りに、ホリエモンがフジテレビの社長になれば、カジノも実現することになるかも。

ホリエモンは、斬新なアイディアを元に、テレビ局のコンテンツをサブスクにして巨大な利益を上げて、テレビ局再生の功労者になる可能性はあります。

しかし、その一方で、カジノを実現し、日本のテレビ局を外資に門戸を開き、日本のテレビが外資にコントロールされる道筋をますます強めてしまうことになるかも。

で、偏向報道が巧妙かつもっと酷くなり、正しい情報が入るかのようにみえて、入らなくなることも出てくるかも。

前門の虎、後門の狼。

フジテレビ騒動に乗じて反日売国を実現する流れが、水面下で着々と流れているというのは、少々うがった見方かもしれませんが、無いとはいえないところもあるかなと感じています。

妄想と杞憂になればいいんですけどね。

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ブログ更新の通知ができなくなってしまったの巻きhttps://www.yurubossa.com/kousinstop/https://www.yurubossa.com/kousinstop/#respondThu, 06 Feb 2025 15:32:00 +0000https://www.yurubossa.com/?p=17381

この前、ブログのカズタマイズをしたんですが、そのときにウッカリ「読者登録」をしている方々のプラグインを削除してしまいましてね。 あちゃー。 読者登録は、ブログが更新されたときにメールでお知らせが入るシステムなんですね。 ... ]]>

この前、ブログのカズタマイズをしたんですが、そのときにウッカリ「読者登録」をしている方々のプラグインを削除してしまいましてね。

あちゃー。

読者登録は、ブログが更新されたときにメールでお知らせが入るシステムなんですね。

で、何人かの方が読者登録されていたんですが、そのシステムをウッカリ削除してしまいましてね。

あいやー。

で、ブログ更新の通知ができなくなってしまいました。

で、削除してしまった理由は、そのシステムを機動しているプラグインというのがあって、今までは無償で使用できていたんですね。

ところが今年になってから、「使い続ける場合は有料に」というアナウンスが入るようになりましてね。

で、それでザクっと削除したんですが、後になってから「シマッタ」と。

読者登録されていた方々のリストも消えてしまったんですね。

そんなわけでして、せっかく読者登録されていた方々に、ブログ更新のお知らせが届かなくなってしまいました。

最近は、更新も滞りがちなんですが、人力で時々見ていただければと思います^^;

とゆーことで、ブログ更新の通知ができなくなってしまったの巻き、ということですぅ。

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