「努力」。
努力は大切。
努力にはやり方があります。
ええ。
適切な努力の仕方を知りませんと、「努力」がかえって足かせになることも事実なんですね。
うーん、ややこしい^^;
第四図、第五図になってしまいますが。
ちなみに、第四図、第五図。これね、差別的な感覚を与えかねないので、不特定多数の前で使うのもどうかなと思いますが、便利な概念であることは間違いないので、使いたいと思います。
◎第四図世界、第五図世界について
http://yurubossa.com/kenkou/hikarimindfulness/
要するに、
・第四図世界・・・個我の世界
・第五図世界・・・真我の世界
のことですね。
で、第四図(個我)世界の中では、努力はしたほうがいいわけです。が、第五図(真我)世界では、努力の仕方が変わります。ってな具合になるわけです。
努力のニュアンスが変わってしまうわけですね。まさに「あるがまま」。
しかし、「あるがまま」は、第四図(個我)世界では、おざなり、気まま、放蕩として理解されます。
が、第五図(真我)世界では、宇宙と一体化するとか、善と徳のエネルギーとか、そういう意味になってくるわけです。つまり、「あるがまま」はいいこと。
で、「自分を変える」もそうなんです。第四図(個我)世界では、努力して、アファメーションをかけてみたり。そうやった意識を高揚させ、鼓舞させる。
ところが、第五図(真我)世界では、そういうことをしません。自然体であることが、そのまま善であり徳になる。無理しないとは、本来、第五図世界の様を言っていたりもします。
「弥陀の本願にお任せする」というのは、言い得て妙です。その通り。
で、第四図(個我)から、第五図(真我)にシフトするためには、苦しくても第五図世界の有り様の「物まね」をしていくわけですね。
その物まねの方法は、たくさんあります。瞑想だけではないんですね。
自然体、リラックス、あるがまま、ありのまま、自我(我)を出さない、気づき、自己観察、内観、利他の実践、神への帰依・純粋な信仰、ヨーガなどなど。
そういう実践で、特徴的なものにフラグを付けて、ラージャヨーガ、ギャナヨーガ、カルマヨーガ、バクティヨーガ、四念処、八正道、五根、五力、七覚支、四正勤、四神足といったまとめ方もしているわけですね。
これが、古来から「悟りのための修行」といわれているものだったりします。禅では、そういう言語化すら避けて、修行者を惑わせ、悩ませます。
で、第四図(個我)世界では、「いまここ」「あるがまま」を本気でやっていくと苦しくなります。心は反応しまくって、七転八倒するときも。
で、それでも自然体、抵抗しない、自我に振り回されない、自我を超えてゆくといった感じで続けていきますと、自我崩壊みたくなって、うつ病みたくなるわけです。
で、いったん自我崩壊してしまいますと、さあ、大変。ちょっとヤバいかもしれません。生ける屍となって、さまようゾンビのようになってしまうからです。
人からは見下げられるし、意地悪もされるし、もう踏んだり蹴ったり。心の中は、グチャグチャになって傷だけ。その傷の上に塩を塗ることも起きるのでは、発狂寸前。
プライドも何もあったもんじゃありません。自我崩壊。しかし、自我崩壊は、プライドがあるから、痛みとして感じるわけです。
が、それでも、「あるがまま」みたいに続けていきますと、ある日、ある瞬間に、
ドン!
と意識の壁がぶち破られて、突如、光明が差し込むことがあります。
しかし、これが全員に起きるかどうかはわからない。わかりません。やってみないと、わからない。
が、そんな危なっかしいことを、人様に奨められるだろうか。精神的に血反吐をはくようなことを、奨められるだろうか。
そういえば、クンダリニーが突然、覚醒した人は、その後の好転反応、偏差に苦しみ、壮絶なことになりますね。
第五図(真我)へ深くジャンプする、深く入り込む際には、第四図(個我)世界の垢を落とす必要があるのかもしれません。それが、精神と身体の両方に出るのでしょう。血を吐いたり。
で、何の話しでしたっけ?
そうそう、努力。
努力は、第四図(個我)世界の概念ということが言えるわけですね。この世界では大切ですよ。
てか、この世界は、第四図(個我)世界ですので、この世界に生きている以上、努力はしたほうがいいわけです。
社会や他人あっての世界です。自分がみすぼらしかったり、デブだったら、周囲も嫌でしょ^^;
てか、完全に第五図世界に生きていませんので、第四図世界のルールも尊重する必要がありますよね。
ブッダもこれを言われているわけです。で、第四図世界への配慮が無い有り様を「外道」と言っているわけですね。
体重や見た目もそうです。いえいえ、適度なおデブはいいですよ。それを「ぽっちゃり」といいます。
骨格に影響を及ぼすくらい目方がデカくなってしまうと、やっぱりマズい。わざわざ健康を害することをしなくてもいいわけですね。同じ生きるなら、健康的なほうがいいわけです。
ま、この辺りの受け止め方は、第五図世界に徹すれば、それこそ「デブでもOK、あるがまま」みたくなるのかもしれませんが、まだそこまで徹底していませんし、第四図世界に半分は身を置いていますのでね。
やはり、社会的な常識、他人へ不愉快な思いをさせないというのは、この世界で生きている上でのお約束でしょう。
なので、他人に無神経、無関心、嫌な感じを与える、不愉快にさせるというのは、止めたほうがいいですし、改善したほうがいいと思いますね。
あと、もう一つ言いますとね、こうした「第五図世界のこと」を、第四図世界で解釈しますと、都合のいい言い訳に使ったり、自分を誤魔化すために使うことがあるので、要注意なんです。
第五図世界では、確かに「あるがまま」あるいは、「物事はただ起きている(縁起によって生じているだけ)」となるわけなのですが、だからといって、第四図世界にいながら、何も努力しないというのは問題なわけですね。
ノンデュアリティの勉強をした方に、こういうワナ、トリックにひっかかっている人が、かなり多くいる印象です。
言葉だけで言っているわけですね。
観念だけで言っている。
そういうのは、よろしくないんです。
それと、もう一ついいますとね、第五図(真我)世界における努力、自己改善という言い方をすれば、それは、「それ」からやってくるエネルギーという言い方ができます。
「それ」自体が、いわゆる「善」であり「徳」なんです。観念や、上辺の行動、心の様ではなく、もっと深いところから来るエネルギー。
で、何もしないで、くつろいでいたり、自然体でいると、そのエネルギーがやってきます。
それを形式にしたのが瞑想です。なので、瞑想をすると、気持ちよくなるわけですね。
で、気持ちよくならない瞑想は、瞑想でなかったりします。ただ、その気持ち良さが、高次元のもので、波動が高いんですね。これがポイント。
で、それが、善であり、徳というもの。
慈悲ともいいます。
そういうエネルギー。
で、そのエネルギーを意識が感じると、「喜(ピティ)」という波動の高い喜悦感として感じられます。体や感覚では、「楽(スッカ)」という高波動の心地よさとして感じられます。
ハートが感じると、慈悲、神の愛として感じられます。知性が感じると、「気づき」という認識が生じます。
第五図(真我)世界では、そういうのがあります。自然体、リラックス、あるがまま。
なので、第四図世界でも、第五図にシフトすることをやわらかく意識しながら自然体、リラックス、あるがままであいることが大事だったりするんですね。
あるいは、自分(我)を出さないといった古典的な方法も効果があります。ポジティブシンキング、アファメーションといった善行的な方法も効果があります。
ただし、ハートを高揚させる、思いに満ちて、心を込めて行うことですね。暗く、重たい状態でやっても、まったく効果はありません。形だけになってしまいます。思いを込めること。高い波動の思いは、第五図世界に通じるからですね。
っということですが、努力についての話しでしたね。
ま、そういうことです。