超弩級の発見

正念とは瞑想の対象を保持することだった~アーチャン・マハー・ブーワは念仏三昧で阿羅漢になった

とても興味深い発見がありましたね。
それは何かといいますと、「気づき」に関することです。

こちらのブログの記事にあります。
◎Sayalay’s Dhamma book
http://yamaneko.hatenablog.jp/

詳細は追々ご紹介しますが、テーラワーダでは「念(サティ)」を重視していますよね。
で、これを「気づき」といっています。

ところが、この「念」とは違う「念」があるという話しです。

で、結論を先に言えば、
「サティ」とは「日常生活の中で一つのことに集中すること」。
これが「念」。
で、実質「禅定系」なわけです。
動中禅。
カニカ・サマディ。

こういう「念」があるということです。
事実、この方法は阿羅漢になったタイの比丘、「アーチャン・チャー」、
「アーチャン・マハー・ブーワ」が推奨し実習していたやり方だったといいます。

これを示す資料が上記のブログにあるということですね。

で、この方法においては、世間に広まっている「気づきの瞑想」「マインドフルネス」は、感覚器官を守る「覚知」のやり方であって、「悟りの補助」としてのやり方という位置づけです。

このことは以前から「マインドフルネスには2種類あるのでは?」とか、
言ってきましたが、それを裏付ける話しが出てきたということなんですね。

新しい発見です。
以下に詳しく書いていきます。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

タイ仏教では完全に悟った比丘に、

 ・アーチャン・チャー
 ・アーチャン・マハーブーワ
 ・メーチ・ケーウ

がいらっしゃいます。
で、このお三方は全員つながっています。

アーチャン・マンのお弟子さんが、「アーチャン・チャー」と「アーチャン・マハーブーワ」。兄弟弟子です。

で、「アーチャン・マハーブーワ」のお弟子さんが「メーチ・ケーウ」。
 

で、このお三方は、全員、禅定を修しています。
で、全員、阿羅漢になっています。

すごいと思いませんか?
で、このお三方のうち、「アーチャン・マハーブーワ」が
ご自身の修行をまとめてテキストにして残されています。

そのテキストが和訳されて、こちらのブログで掲載されています。
http://yamaneko.hatenablog.jp/
 

重要なのは、その修行の方法と解釈。
驚くことに「正念」とは「瞑想の対象を保持すること(忘れないこと)」といいます。

「正念」は「サティ」といわれ、「気づき」と訳されています。
なので「念」といえば「気づき」として解釈されています。

身体の動き、感覚、心などに「気づき」を入れることが「サティ」といわれています。
「マインドフルネス」も同じです。

ところが!これとは違うやり方があったわけです。
つまり、

従来の念(サティ)・・・日常において、身体、感覚、心に「気づく」
もう一つの念(サティ)・・・日常において、仏など一つのことに「集中する」(念仏、念住)

ということ。
念(サティ)には、日常生活において何か一つに集中し続ける
というやり方もあったわけです。

このやり方においては、一般的に知られている「念(サティ)」は、
感覚器官に気づいて護る「覚知」であるといいます。

で、何故一つのことに集中(念住)するかといえば「妄想を断つため」です。
つまり禅でも言っている通りで「分別を断ち、非思量になる」ためです。

少林窟寺の井上希道老師が昔から指導されている禅のやり方は、まさにこの方法です。
井上老師は「呼吸に常に専念・専心しなさい」と言われて指導されています。
この方法は、まさにテーラワーダの「正念(念仏、念住)」です。


 

で、「念」は、一つのことに専心し集中することをを示す具体的な資料はこちらです。
アーチャン・マハーブーワが残されたテキストと、
その解説を参照して検証してまいりましょう。

引用先は、こちらのブログです。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2018/07/13/070907
—————————
<マインドフルネス>が、<よく気が付いている事>と言う風に理解されて、
現今、世間に流布されているのは、少し違うように思います。
<正念>の正確な定義は、<瞑想の対象を忘れない事>です。

今、私は喜んでいる。今、私は悲しんでいる。今、私は妄想している・・・などと、
己の心の動きに気が付いているのを<正念>、すなわち<マインドフルネス>だ、
という風に説明する人がいますが、それは間違いです
(今、私は妄想している、のを知っている事=<覚知>)。

<正念>が、<マインドフルネス>と訳され、
またそれが、<己の心の動きに気が付いている事>とされたために、弊害が出ています。
—————————

これは、のっけから強烈な指摘ですね。

で、「アーチャン・マハー・ブーワ」は、「仏陀、仏陀、仏陀・・・」と念じて、
修行していたといいます。

で、これを「念住」というと。

これはつまり、一つのことに集中し続けることです。
集中する対象は、呼吸であったり、仏陀のイメージであったり、
「仏陀」と唱えること(マントラ)であると。

で、アーチャン・マハーブーワは、「仏陀、仏陀・・・」と唱える修行を続けたと。
 

が、これって、いわゆる「念仏」です。
驚くことに「正念」は「念仏」と本質は同じだったということ。

アーチャン・マハーブーワが一日中「仏陀、仏陀・・・」と唱え続けたことは、
ヨーガでいうところの「マントラ・ヨーガ」ですね。
真言を繰り返して唱えることです。

しかしこれは「南無阿弥陀仏」を唱える「念仏」と本質は同じです。
また「南無妙法蓮華経」を延々と唱えることも原理的には同じになるでしょう。

インパクトのある話しですね。
てか、ほとんどのテーラワーダの「念」とは「異なるやり方」ということです。
 

で、アーチャン・マハーブーワの修行は、こうもあります。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2018/07/14/142138
—————————
”仏陀”ーー仏を憶念する事であった。
私は念誦の詞として決めた ”仏陀” を、唯一の専注の対象とし、
私は、己自身の心内において、繰り返し ”仏陀” と念ずる事を保持するように迫り、
他の一切の事柄は、遠くへ排除した。

—————————

うーむ、これまたコペルニクス的転回。
阿羅漢になったアーチャン・マハー・ブーワは、
「念仏三昧」だったという事実。

 

さらに、
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2018/07/09/191239
—————————
安定的に、念住と覚知を保持し、心念を不断に観察する事を言う。
我々の一切の姿勢と、すべての思惟と情緒・感情の活動において、
念住によって、常に、覚知と省察が出来る時、これを ”正精進” と言う。

—————————

これまた驚いた。
正精進とは、「念仏」を行い続けることであると。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 

以上の通りです。
テーラワーダの「念(サティ)」を知っている人なら驚くと思います。

アーチャン・マハーブーワの修行の仕方は、
通常行われている「念」とは異なります。

今まで知られていた、教わってきたたテーラワーダ式の「念(サティ)」とは違うやり方ですね。このやり方においては一般的に理解されている「念(サティ)」は瞑想の補助となり前段階となる「覚知(正覚)」という指摘です。

しかしこれは「念」を禅定系に解釈したやり方であって、
一般的に知られている「念」のやり方もあって、
「念(サティ)」には2種類あるということなのだと思います。

 

で、このことは以前から指摘していたことなんですね。
サティには「2種類ある」のではないかと。

一般的に解釈されているサティ(マインドフルネス)は、
感覚器官を守る瞑想の前段階における修行であると。

このことを阿羅漢(仏陀)となったアーチャン・マハー・ブーワの
修行テキストが明らかにしていると思います。

サティのもう一つのやり方に「アーチャン・マハーブーワ」のやり方があるわけですね。
念仏。
清浄道論にある「仏随念」というやり方。
マントラに集中するやり方。
集中。
禅定系。
 

ちなみにこちらの記事のコメントには、
兄弟弟子の「アーチャン・チャー」の修行の仕方も紹介されています。
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2018/07/14/073737
—————————
アチャン・チャーも、弟子に ”仏陀””仏陀” と念じる事で、
妄想を断つ修行を勧めまた。

これは、初心者なら一日中念誦する。
また、中級者であれば、毎回の座禅において、深いサマーディに入る前の、
ウォーミングアップに ”仏陀” を念誦するように指導しているようです。

—————————

これは要するに、まず念仏(仏随念)を四六時中行って、
妄想を出さない「非思量」に至らせるということですね。

で、「非思量」になるためには、並行して一境性(一体性)と集中力を培い、
「禅定」を行うということなのでしょう。

まず日常的に、何か一つを「念じ」続けること。
で、これが「正念」。
しかし、これは現代でいうところの「イメトレ」に通じます。
イメトレも一つのイメージなりに集中し続けますのでね。
方法そののものは同じになります。

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テーラワーダには「禅定」としての「念」のやり方があるということですね。
念仏のように「ひたすら集中」し続ける念(サティ)のやり方。

ちなみに後の大乗仏教の六波羅蜜では「念」が無く「禅定」だけになっています。
これは「禅定」を主体としたやり方なのかもしれません。

そういえばブッダは菩提樹の下で禅定に入って悟っています。
なので始祖の道を尊んで、禅定を尊ぶ方法が主流だったのかもしれませんね。
もちろん禅定以外の方法もあります。

しかしながら20世紀に大悟されたアーチャン・チャー、アーチャン・マハーブーワ、
メーチ・ケーウも全員、禅定系です。
禅定を修しています。

タイだけでなく、ミャンマーでもそうです。
パオ・セヤドー、クムダ・セヤドー、ディーパンカラ・サヤレー。
ウ・ジョーティカも禅定を軸とされたり取り入れています。

大悟したといわれている板橋興宗氏も、
「目を閉じれば一体となる」と言われていて、
日常的にサマディが起きていることがわかります。

もっとも繰り返しになりますが、禅定以外でも解脱している比丘や僧もいます。
なので「禅定だけが正法」とか言い出すのは偏っています。
いくつかの「道」があるということですね。
で、それぞれの道において、「念」の解釈も違うのかもしれません。

 

ですが、やはり今まで教わったテーラワーダ式の「念(サティ)」だけではない
ということなんでしょうね。
少なくとも2種類のやり方がある。

実際のところ「外部の対象物に気づき続ける」ということは難しいと思います。
「気づく視点」が定まらず、本当に気づくことができるのかという疑問も出てきます。

瞑想を行う視点・状態・姿勢が定まらないで、移りゆく外部の対象に
気づき続けることは困難であり、初めての人が行うにはハードルが高いと思います。
的を射た気づきは困難です。

けれども的を射ていなくても、気づきを行い続けていく中で、
次第に的が定まってくるのが、このやり方なのだと思います。

これとは別の方法を提示しているのが、
「アーチャンチャー」「アーチャン・マハーブーワ」のやり方だったわけですね。

納得です。
「禅定系」としてのやり方もあるということなんだと思います。
 

なんかスッキリした感があります。
今広まっている念(サティ)やマインドフルネスのやり方は一つのやり方だったわけですね。
瞑想の前段階となる「覚知」という受け止め方もできます。
ウォーミングアップとしての「念」。

 

で、それで、

「念(サティ)」「気づき」の整理
 1.感覚器官を守る覚知としての気づき(マインドフルネス)
 2.動中禅(禅定)としての念(サティ)
 2.智慧としての気づき・念(サティ)

となるのでしょう。

で、一般的な気づき(念)とは、「1」と「2」が区分けなく「気づき」とされつつも、
実際は「覚知としての気づき」から「智慧としての念(気づき)」へ、
自然に移行しているのではないかと思います。
これをひっくるめて「念(気づき)」としているうようにも思います。

一方、アーチャン・マハーブーワによる方法は、
「覚知としての気づき」から「禅定としての念」へ移行するやり方だと思います。

 

今回、阿羅漢・アーチャン・マハーブーワが残された修行テキストで、
「念」に関することがいろいろとわかりました。

原始仏教に関してはいくつか謎や疑問もありますが、
しかしアーチャン・マハーブーワの「正念」とは
集中し禅定に至るやり方だったということは驚くべきことです。

アーチャン・マハーブーワー式の「念仏」「念住」といった禅定系の念(サティ)と、
一般的に理解されている乾観者の気づきとしての念(サティ)の
二つが混在しているのかもしれませんね。
念には2種類あるということなんでしょう。

それにしても、今回大変参考になり、引用もさせていただいた
こちらのブログは秀逸です。

◎Sayalay’s Dhamma book
http://yamaneko.hatenablog.jp/

テーラワーダの深さを垣間見ます。

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