神道における穢れと天晴れ~小坂達也「本当はすごい神道」
たまたま見つけた動画。これはいい動画ですね。
いい生活ではなく、いい人生【CGS 小坂達也 本当はすごい神道 お正月特番その3後編】
小坂達也氏によるお話しです。神道のことが、現代風の説明でわかりやすくされています。
お話しのポイントをちょっと拾ってみましょう。
神道とは自然の理に従うことと同時に自然の理に逆らうこと。
この世に、完全無欠はない。
矛盾している。
曖昧でもある。
で、この矛盾や曖昧さに白黒を付けるのは力のある者。権力者。
物事は矛盾している。
曖昧でもある。
「穢(けが)れ」とは悪い心の状態。善い心の状態を「天晴(あっぱれ)」という。
明快ですね。
悪い心は穢れ、善い心は天晴れ
で、
- 穢れ・・・悪の心、不浄
- 天晴れ・・・善の心、きよらか
- 悪い心で生きると「穢れ」た人生。
- 善い心で生きると「天晴れ」「きよらかな」な人生。
シンプルです。
神道はシンプルですね。
天晴れはカラリとした心
「天晴れ」はカラリとして光っていますしね。
まさに「あっぱれ」、
スッキリ、シャッキリ、カラリーン。
礼があり、徳を重んじ、カラリとしている。
「天晴れ」とは、善、きよらかな様。
「天晴れ」の意味は知りませんでしたな^^;
で、観念にならないのが、これまたいい。
体感的。
今まで、ともすれば漠然としていたこと、
曖昧だったことにメスが入りましたね。
穢れは重く濁った心
「穢(けが)れ」もそう。
「この波動は、さすがに嫌ったいなあ」
というのは、まさに「穢れ」だったわけです。
「天晴れ」の正反対。
波動的にいっても、
「穢れ」は悪い想念エネルギーですしね。
本当に、そういうブラックで
粘りのあるドロリとした状態です。
まさに「穢れ」。
言い得て妙。
神道の言葉は語感がいい
「穢れ」にしても「天晴れ」にしても、観念的ではなく、体感的な言葉ですね。
素晴らしい。
すごく納得。
で、シンプル^^
古事記で説く「人の魂は元より完全」は浄土宗で説く「本覚」に通じる
神道は、深いところの意識を見続けています。
しかも細やか。
礼も重んじる。
だから、ご神霊の存在を感じる感性も開けてくるのだと思います。
人は元より完全
古事記には、「人の魂は、元より完全である」といった教えがあるとか。
で、付け足すのではなく、本来持っている個性なりを活かす教えであると。
文献をしっかりと見ていませんが、そういうことだといいます。
元より完全とは本覚のこと
で、これって真理を突いていますね。
そもそも「元より完全」というのは浄土宗で言うところの「本覚」のことです。本覚とは「あなたは最初から悟っているんです」ということですね。
神道はものすごく深い。
仏教で問題になりがち悩みがちなことの答えは、神道のほうが明快。神道のほうがわかりやすい。
欲が良いか悪いかも神道なら明快
たとえば「欲」。
「欲っていけないんですか?」と質問を受けることがあります。
が、これなどは神道では明快に答えられます。仏教の本質に違わず、鮮やかに答えられます。
端的にいいますと、
天晴れであるならば、いわゆる欲はそう問題にならない
ということです。
逆にいいますと、穢(けが)れた心の状態では、あれこれと悩み、観念的になり、いたずらに迷いを増やすだけ。
大事なことは、内在神という生命の源に立ち返り、内なる神を自覚することで、自ずと精神は「天晴れ」となることなんですね。
この状態にあれば、欲が正しいとか悪いといった観念的なジャッジは落ちます。
ただ自然の有り様で、必要なものを求めるといった生き様が展開してこようかと思います。
余計なことをあれこれと考え悩む、その行為そのものが、「欲の是々非々に悩む」といった観念的な迷いの心を生み出す。
そもそも、欲を是々非々する問いが出て悩み惑うこと自体が、ズレているわけですね。
仏教は否定的な説明をする
しかしこうして鑑みると、仏教は「否定的」です。思考が強すぎます。
これじゃあ心がねじ曲がってしまうことも出てきますね。
けれども本来の仏教は、日本の神道のように明朗で快活だったと思いますね。
で、こうした文脈での「いまここ」「手放す」がいいんじゃないのかな。そう思います。
日々、天晴れであらんことを
ご託はさて置いて、天晴れですナ。
スッキリ、サッパリ、カラリーン。
やっぱり日本的ってすごいですね。
深い意識に進んでゆく言葉の使い方もしています。
しかも細かいことは抜きにして説明は仏教的です。けれども仏教と違って、暗くないですし、ネガティブでもない^^;また観念的ではありません。体感的。
シンプルにいいですね^^