以前、アーチャン・マハーブーワの修行の仕方を知って驚いたことがあります。
結局、念(サティ)のやり方には2種類あるということなのでしょう。
1.アーチャン・マハー・ブーワ式
・集中して一つのことを「念」じ続ける
・気づきの主体である「それ」に溶け込んで禅定を得る
2.アーチャン・チャー式
・行っていることに「気づき」をいれていく
・気づきの主体である「それ」を体感することが肝要
・「それ」そのものに溶け込んで禅定を得る
2つのやり方があるってことです。
一般的には「2」のやり方が知られています。
マハーシ式、気づきの瞑想、マインドフルネスも「1」です。
サティ系の実習では、「気づいている主体」にツボることが大事ですね。
このことは明文化されない傾向です。
が、実習していく中で経験的にわかってきます。
しかし「気づきの主体」にシフトするような説明があることが望ましいですね。
でありませんと、実習者の中には戸惑うことがでてきます。
実際、私自身、戸惑いました。
最初は自然に行っていて瞑想がうまくいっていた。
が、テーラワーダでは「真我を否定する」という話しを聞いてから、マインドが疑問に思うようになって、途中からどうもサッパリ。
うまくゆかなくなった。
ところが「それ」を最初に踏まえるアドヴァイタ式を始めてから、一気に世界が開けて加速していったというのがあります。
で、一般的に知られている「2」のやり方では、「それ」「真我」を踏まえないと進まないようになっているわけです。
しかし明文化されていない。
そもそもテーラワーダでは真我を否定しています。
ますます混乱することも。
もっとも「観察」「観る」という言い方はしています。
実は、この「観察」「観る」こそが「気づいている主体」のことだったわけです。
「観察」「観る」は行為ではない。
「気づいている主体」の働きのことを言っていたわけです。
元より「観ている」わけですね。
誰もが最初から「観ている」。
観察している。
目撃しています。
けれども、このことがテーラワーダではわかりにくい。どうしても「観察」「観る」というDo(する・行為)をしてしまいます。
で、ほとんどの人は、この要諦がわからないまま、迷子になっています。
瞑想難民です。
で、「1」「2」のどちらも大切なことは「気づいている主体」であること。
そうして深めていくこと。
この深まりが「定」。
カニカ・サマディ。
カニカ・サマディでも「気づいている主体」があります。
観ている。
ここがポイント。
ハマりこまない。
意識して行う「気づき」というのは浅いレベルです。
気づきが深まって「定」に至るようにしないと、
悟りの文脈では停滞してしまうと思います。
しかし「アーチャン・マハーブーワ式」を知ったときは驚いたものです。
集中して「念」を行う方法はパワフル。
こういうやり方もあるんだなあと。
で、悟りの方法はいろいろとあるってことですね。
こうしたことを知りますと、学びになります。
一瞥体験、見性体験は大切です。
これらがあって初めて悟りのことについて語ることができるようになるんじゃないかと思います。