悟り・一瞥体験のディープな独り言の続き 2023.8.3

それにしても一昨日、投稿した悟り・一瞥体験・覚醒体験の記事は、アクセス数がわりと多いですね^^;

やはりこのブログは、こっち系の話しのブログなんですかね?怒濤のキリスト教記事は、あまりアクセスは無かったんですよね。

やっぱり瞑想系の記事が中心になるかなあって思います。

しかし正直なところ、文字化できないことのほうが多いんですよね^^;、ブログに書けることは限られたことになります。
 

で、なぜ、文字化できないかといいますと、そもそも瞑想は「非言語領域」ですので、文字化が難しいからなんですね。

また文字での伝達は、皮肉なことに、瞑想ができている人のみにその真意が伝わるからなんです。

ですので、瞑想の深いことや精妙なことを文字化することは、一部の人には有益であっても、実はあまり役に立たないことも少なくなかったりします。

あと、精妙なことはなんか書きたくないといいますか、書けないといいますか、書いちゃいけないような感じもするからなんですね。
 

そうそう、この感覚。
これってこの領域では「あるあるな話し」だったりします。

こう言っちゃ何ですが、話しがうまく伝わりませんと、スーっと抜けていき、ガクっとした感じになります。

で、これが続くとよくない。
 

これは瞑想が深まった方も同じような感覚になります。

瞑想をしてある一定のところを超えて、それを言語化する場合、うまく伝わらないと、ガクっと来ることがあります。

で、気持ちが不安定になることも出てきます。

それだけ精妙な領域なんですね。
 

こうした精妙な領域になってきますので、前回も書きましたが、既有業(きうごう)が大事になるんですね。善業三種ともいいます。

つまり、ほどこし、礼節、瞑想(慈しみ)。

この3つですね。
これが非常に大事になります。

精妙であるが故に、言葉使いとか、マナーも非常に大事になってきます。
 

そうそう、私は、長年、丁寧な言葉使いを心がけてきたところ、すっかり板に付いてしまいましてね。日常的にも丁寧な言葉がデフォルトになっています^^ゞ

で、ぞんざいな言葉使いは、基本的にできなくなってしまいましてね。

冗談でおふざけ言葉を使うことはありますが、普段使っている丁寧な言葉でないと、ノコギリでガシガシやられたような感覚になります。つらくなるんですね。認知がそうなってしまったとゆーか。

こういうのは、営業などのお仕事をされている方も、似たような傾向があるかもしれませんね。
 

同様に、マナーが乏しい言葉とか応対も、おろし金でザクザクっとされた感じになります。

ホント、ゆったり、まろやか、マイルドというのがスタンダードになっています。

で、これを言葉化すると、まさに既有業(善業三種)になるんですね。

気前のよさ(おおらかさ)、礼節・マナー、やさしさ。
 

しかしこれって、環境を間違えれば、生きづらくなってしまうんですが^^;、しかし理屈では推し量れないこともありまして、そもそもメリットは多いんですね。

なので瞑想による恩恵はとてもありがたく、大事なことなんですね。

 

で、前回の投稿で、「一瞥体験・覚醒体験をすると悟り的な見解を持つようになる」と書きましたが、ちょっと言葉足らずだったかなあと思い、補足します。

一瞥体験・覚醒体験をすると必ず悟り的な見解を持つようになります。

で、
・自分がない(希薄)
・おおらかになる
・博愛が強くなる
・気前がよくなる
・高い精神性はよいものだ

といったことは美徳になりますので、むしろ望ましいことだったりします。

で、これこそ「既有業(善業三種)」に連なる見解なんですね。

これはいい。

でも悟りではないということですね。
 

で、問題なのは、

・私はない
・全ては無
・全ては空
・この世は幻想である
・全ては仮の姿
・真実は高次の意識のみ
・ただ起きているだけ
・あらゆる考え・価値は意味がない
・この体験(一瞥体験・覚醒体験)からの考えや見解こそが真実

といった見解を持って、しかも虚無、厭世的、出家遁走、現実の否定といったネガティブに結びついた場合なんですね。

こうしたケースでは、ほぼ100%、人生を破壊するほうに作用します。

で、これがマズい。
 

で、一瞥体験・覚醒体験をすると、こうした見解に陥る場合もあり得るので、それで注意が必要なんですね。

また一瞥体験・覚醒体験をしていなくても、こうした傾向を持った方は要注意なんです。
 

実際、ネガティブな悟り的見解のために、ダークサイドに陥っている事例があります。

昔からあります。
現在でもあります。

河上肇、井上日召、麻原彰光は、有名なところです。

 

一瞥体験・覚醒体験は、その体験の取り扱いが適切であると、非常に有益になります。

とはいっても、一瞥体験・覚醒体験といっても、体験に深浅があります。

また体験後、適切な歩みしていると、さらに深まることが起き得ます。

そういう生き方といいますか、歩み方があるんですね。
 

それにしても一瞥体験・覚醒体験を「悟り」とすることは、もっとも大きな勘違いになります。

勘違いしてしまうと、突き抜けてしまうことが多くなります^^;

「おりゃー、私は悟ったんだー!」と一途に突き抜けます。

で、倫理や道徳、マナーなどを「すべて幻想だ」「作られたものだ」と言って、軽んじてしまうようになります。

で、事故を起こす。

こうした事例は昔からあります。

で、ある種のパターンと特徴がありますので、事前に察知することもできます。
 

しかし、この手のケースに陥るのは、大概「自分が無い」という自我を持った方になります。

奇妙に聞こえるかもしれませんが、「自分が無い」という体験が、むしろ「【自分がないことを知っている】自分」という「自我」を形成し、これを強めてしまうことがあります。

結局のところ「自分が無い」ということを知っている「自分がいる」わけなんですね。

で、この「自分」が、視角になり、「無我としての自我」という奇妙な自我を形成してしまうわけですね。

言っていることわかりますかね?^^;
 

なので、この手の「無我の自我」に陥った方は、なかなか人の言うことを聞かなくなるんですね。

なので傍観することになって、見守ることになってしまいます。

いえいえ、こうしたことは他人事ではありません。
 

で、古来から「自己を省みることの大切さ」、「自我の強さが戒められる」のは、こうした体験をした場合のことも想定されているわけなんですね。

で、心を感じること、自己観察をすること、これができませんと、危なっかしいんですね。

で、一瞥体験・覚醒体験による体験が深まってきますと、この辺りのバランス感覚が高まってくるようになります。

一瞥体験・覚醒体験をしたから安心というわけではなく、その後の修行も続くわけなんですね。
 

しかし本当の悟りは、一瞥体験・覚醒体験とはまったく異なります。

認識が変わりますので、そもそも生の事実と記憶の違いがハッキリとわかるようになりますので、迷いが生じなくなるといいます。

で、自己という認識が完全に脱落するといいます。

何らかの見解に陥ることはなく、ただ「その通り」となるようです。

 

ですので修行には、

1.言葉で規定された教えや実践

2.瞑想(非言語領域の修行)

3.悟り(言語領域の完全超越と認識の変容)

という3ステップが存在していて、これを仏教では「戒・定・慧」と、それぞれ言っていたわけなんですね。

一瞥体験や覚醒体験は、瞑想の延長に生じるもの、悟りそこねた体験とも言えます。

 

と、まあ思いつくままにダラダラと書いていますが、そうそう、ここのところキリスト教への関心が急速に失われてきています^^;

速っ!(^o^)

キリスト教の世界を探索していると、なんだかブルーといいますか、あんまり気分がよくないんですね。

で、頭の中もゴチャゴチャしてくる感もあって、結局、マインドがメチャクチャ強い宗教なんですね。

あまり長居している世界ではないんですね。
 

そんなキリスト教なんですが、末端の信者さんのように、キリスト教がよくわからず、なんとなく「ふわっ」と信仰したり活動している分には、それほど問題はないんじゃないかと思います。

むしろ人によってはメリットや有益性があるんじゃないかと思います。

問題なのは、ガチな場合ですね。

ガチになると、ちょっとヤバい^^;

ええ・・・(^o^)

 

とまあ、そんなことでして、今日も独り言のような日記をば^^ゞ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です