悟り・一瞥体験に関する知られざる真実

子ども時代の幼なじみのことをふっと思い出して、フェイスブックで調べると、なんと見つかりましてね^^;

おお。50年近くぶりの再会?

で、いいおっさんになってるわい^^;

と思いながらも、子どもの頃の面影があって、なんともおもしろいもんです。

現在の様子を見ると、◎◎クンなんて気軽に声をかけられないような風貌もあって、なんともかんとも異次元トリップした感があります。

記憶は8才くらいで止まっているんですが、現実はおっさん。ワタクシもそう^^;

この記憶のズレといいますか、過去の記憶といいますか、昭和の仮面ライダー時代の本郷猛が、いきなりおじいちゃんになったかのような、そんな不思議な感覚をもよおします。

 

フェイスブックって、「昔の人探し」に使えるんですよね。

で、ついでに昔、接点があった方々をもチェック。

おお。

出てくる、出てくる^^;

 

で、見ていると、「この頃は、アストラル界時代で、スピリチュアルにドップリだったなあ」と回顧モード。

スピリチュアルの問題や、アストラル界系が良くないことをよく言っていますが、これは私自身の体験・経験からも言っていましてね。

実は、そういうのがあったりします。

スピリチュアルはあまりおすすめできない。

いやおすすめできない。

できれば関わらないほうがいい。

迷いと混乱の世界でもあるからです。

そういうのは実体験しています。

なのでスピリチュアルはよくない。

いえ、正確にいえば、アストラル界系スピリチュアルはよくない。

趣味で、エンタメとして楽しむ分にはいいんですけどね。

 

で、キリスト教がまさに、アストラル界系スピリチュアルなんです。

ええ。

だからキリスト教の欠陥が非常によくわかるわけです。

見えまくって見えまくって、そのポンコツっぷりが非常によくわかるわけなんですね^^;

で、キリスト教の場合は、欠陥どころか有害な産物になっています。

非常に問題。

実は。

 

で、今は坐禅を軸にしています。井上義衍老師系の坐禅ですね。

坐禅といっても、井上義衍老師系以外は全部ダメなんですね。

ええ?そんな言い切っていいの?

と思われるかもしれませんが、言い切れるんですね、これが。

別段、ドグマではないんですね。

 

やはり悟った人から教わらない坐禅はポンコツ過ぎて、まったく役に立たないんです。

役に立たないだけで無く、これまた有害。

なぜ有害かといえば、「悟り的な見解」を持っているからです。

正真正銘の悟りには「見解」はありません。

今の様子だけがあるといいます。

そこには、悟り的な見解はありません。

ないんですよ、見解が。

 

悟り的な見解。

これは「全て間違い」なんですね。

「悟りではない」っていう意味で間違いなんですね。

が、悟りでないけれども、「有益な悟り的な見解」があることも事実です。

しかし、有害な見解もあるんです。

たとえば虚無、厭世的、出家遁走、現実の否定といった見解。

これはらネガティブに陥っているからなんです。

人生を破壊する見解。

危険な見解。

 

で、これと関連して一瞥体験・覚醒体験。

これは悟りではありません。

が、一瞥体験・覚醒体験を悟りとしますと、人生に必ずつまづきます。

失敗します。

そんな方々は古来から現在でも少なからずいらっしゃいます。

 

で、一瞥体験・覚醒体験を元にした見解は、いわゆる「悟り的な見解」となります。たとえば、

私はない
全ては無
全ては空
この世は幻想である
全ては仮の姿
真実は高次の意識のみ
ただ起きているだけ
あらゆる考え・価値は意味がない
この体験(一瞥体験・覚醒体験)からの考えや見解こそが真実

これらは全部、悟り的な見解です。
ノンデュアリティでも言われています。

が、これらはすべて誤り。
間違い。
悟りではありません。

で、こうした悟り的な見解を抱くと、人生につまづきやすくなります。

 

私も過去に、こうした見解に陥ったことがあります。

一瞥体験・覚醒体験をすると、新しい意識にひらけるため、これに付随して新しい見解や物の見方が生じます。

で、どうしてもそういう考えや物の見方になります。

で、すべての体験者が、悟り的な見解などを持つようになります。

 

が、これは大いなる落とし穴だったんですね。

私も薄々「おかしいな」「変だぞ」「ヤバイと違う?」という本能が働いたため、深入りすることはなかったものです。

しかし少なからずの影響を受けました。

一瞥体験・覚醒体験の本当の意味を知らないと、人生に影響を及ぼします。悪い意味で。

これが知られざる一瞥体験・覚醒体験の落とし穴。

大いなる落とし穴。

知られざるリスク。
 

ちなみに一瞥体験や覚醒体験をしていなくても、性格的に虚無、厭世的、出家遁走、現実の否定といったネガティブに陥りやすい方がいます。

こうした方が、仏教に興味を持ったり、一瞥体験や覚醒体験の話しを聞くと、ますます悪化させてしまいます。

このタイプの方は要注意なんですね。

ネガティブな認知がクセになっているからです。
で、悟り的な見解が、余計に悪化させます。

困ったことに「悟り的な見解」が「真理」「真実」と思っていますので、この認知から抜け出せないことが多かったりします。

それが「間違いなんだよ」というのが腑に落ちない限り、永久に抜け出せません。

無限ループ。

いわゆる空病。

 

坐禅の修行を始めるようになり、この手の「悟り的な見解」がすべて「誤り(悟りではない)」であることが心底腑に落ち、非常にラクになったものです。

またそれが故に、自分が体験したことも、わりと平気で言えるようになったものです。

その体験へのとらわれが無いからです。
こだわりもない。

 

もっとも悟り的な見解であっても、
・自分がない(希薄)
・おおらかになる
・博愛が強くなる
・気前がよくなる
・高い精神性はよいものだ

といったことは美徳になります。

むしろ望ましい見解になります。

で、これこそ「既有業(善業三種)」に連なる見解なんですね。

これはいい。
いいんです。
推奨できる見解なんです。

一瞥体験や覚醒体験をして、このような有益な見解、社会を益する見解にいたるのはいいんです。

 

で、悪い見解も、善い見解も、一瞥体験・覚醒体験をした人のほぼ全てが、悟り的な見解を抱いていることがわかるようになったものです。

例外なく。

一瞥体験・覚醒体験をした人は、ほぼ例外なく「悟り的な見解」を抱いています。

これがわかった。

見えるようになった。

で、ほとんどの体験者が空病に、大なり小なり陥っている。

 

しかし、「それが間違いだよ」ということに気がつかないと、誤りであると指摘してくれる人がいないと、一生、その見解を抱き続けます。

実は、不幸になる怖れがあるのが一瞥体験・覚醒体験。

信じられないかもしれませんが、これが本当の話し。

この手のものは、実際に体験した人にしかわからないことじゃないかと思います。

 

とにもかくにもいろんなことを経験したり体験してきました。

言葉化された教えの限界と問題点

アストラル界系スピリチュアルの限界と問題点

一瞥体験・覚醒体験の限界と問題点

エネルギー体験の限界と問題点

こうしたいことを一通り体験して、究極だと思うのが坐禅。本当の坐禅。

坐禅こそが最強であると思います。

苦しみが滅尽するからです。

 

しかし坐禅は理解が難しい。
非常に難しい。

いえ本当はシンプルなんですが、思考は余計なものを継ぎ足すクセがあるため、それで迷妄に陥りやすくなっています。

しかしプレゼンスに開眼していると、坐禅は理解しやすいように感じます。

なのでプレゼンスをお伝えしています。

 

私はまだ悟っていませんので、坐禅を教えることはできません。

しかし、プレゼンスなどの瞑想はお伝えすることができます。

さまざまな体験についてもお話しができます。

で、これはこれで役に立っていると思います。

いえ、いろいろなメリットもあります。

徳を育むことができますし。

しあわせになれます。

地頭もよくなりますし。

能力も高まる。

その他、いろんなメリットがあります。

 

それにしても一瞥体験・覚醒体験。

これを「悟り」を思い込むと、リスクが大きくなります。

人生に失敗するようにもなります。

これはいつの時代でも起きています。

現代でも。

 

実名をあげると差し障りがありますので、ここではあげませんが、一瞥体験・覚醒体験は諸刃の剣だなあと思います。

取り扱いに注意。

 

取り扱いが適切であるならな、その人を善化に向かわせます。

マナー(礼節)、瞑想、気前の良さ(施し)。ハートフルさ(慈しみ)。

これらは既有業(きうごう)といって、過去の罪を消し、幸せに導く行いであると、原始仏典では説きます。

こうしたものが身についているかどうかが、一瞥体験・覚醒体験を適切に活かしているかどうかを見極める尺度になるんですね。

 

と、今日はちょっとディープな独り言^^
話しは続く⇒

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